「障害者アート」や「アール・ブリュット」についてはスウィングなりに考え尽くしたし、もうとっくに距離を置いているつもりだけれども、それでもいろんな情報が入ってきたり、いろんな話が舞いこんできたりする。
※ 考え尽くした軌跡についてはだいたい以下のような感じになります。
アブノーマライゼーション
http://garden.swing-npo.com/?eid=1400292
展覧会「ART BRUT? NOT ART BRUT?」回想録
http://garden.swing-npo.com/?eid=1400291
さよなら、アール・ブリュット
http://garden.swing-npo.com/?eid=1400317
【寄稿】「別にすごくない」と言えること
http://garden.swing-npo.com/?eid=1400334
最近あらためて「障害者アート」について考える。
「障害者アート」という言葉に問題があるとするならば、それはそれほど難しいことではなく、本当にシンプルに、「この言葉によってイヤな思いをしている人がいる!」という、単純なことなんじゃないかなあと。
社会から与えられた自分の「属性」のようなもの、しかもあまり好ましい響きではない言葉が「アート」の「前」につくという、この状況。自分に置き換えて考えてみても、マジでイヤやなあと思う。
このイヤな感じをもうちょっとだけ掘り下げてみようと、(最近は眉間に皺よせ、ワークショップの準備ばかりしている)沼田くんに投げかけてみたところ、「“「障害者」やのに”って感じがするからじゃないですかね」。
なるほど、確かに「障害者アート」という言葉からは、(それこそ言葉は悪いが)“「障害者」やのに”とか“「障害者」にも関わらず”という感じが漂っているように思う。少なくとも沼田くんと僕はそれを感じる。ではこの感覚を仮に「やのに感」と名づけて更に考えてみよう。
「糖尿病者アート」という言葉があるだろうか?
多分ない。あったとしたらかなりの違和感がある。「やのに感」漂う。
「女性アート」はどうだろう?
あるのだろうか? 知らない。あったとしたら色んな反発が色んなところで起こっていそうだ。「やのに感」かなり漂う。
「ブラックアート」。
これはもうあるジャンルだが、あまり違和感を感じない。恐らく黒人にしか確立できなかったアートが確実にあるし、なんかカッコいいとすら思ってしまう。「やのに感」もない。逆に強烈な誇りのようなものすら感じる。
「おかんアート」。
これも確立されつつあるジャンルだが、違和感が1周回ってイイ感じしかしない。作品を観る前から人の心をゆるませる力すらある(即ちこの言葉自体にアート性が宿っているとも言える)。「やのに感」はあるが、やはりイイ感じの「やのに感」である。
これらは全て僕の主観だし、ああだこうだ細かいことを議論するのはもうイヤ! というのが正直な気持ちだが、やっぱり「アート」は「アート」でいいんじゃね? と思うし、“ソレが「アート」かどうか?”というのは、むしろ観る人が決める、感じることが基本なんだと思う(「ピカソ? くっだらねー!」と言ってもいいのが「アート」というものだと思う)。
こまりんは言う。
「「アート」として観る前に「障害者」の方を見られてるっていうか、「障害者」ってつくだけで、キラキラしてる感じがうれしい人が多いんじゃないですかねー」
そうね。「障害者」じゃなくって「その人」は「その人」でしかないのにね。
便宜上、「障害者アート」という言葉を使わざるをえないこともあるし−先日も「障害者アートあるある」と題したトークイベントを思いっきり主催したばかり!−今の「障害者アート」ブーム(らしきもの)にスウィングが乗っかっている(?)ことも否定できない。
別にそんな深刻でもないのだが、こうしたある種の矛盾を抱えながらスウィングは日々を歩んでいる。
そして「障害者アート」ってなんかちょっとイヤな感じ! というこの感覚を、心のどこかに残しておくことはやっぱり大切なことなんじゃないかなあと思うし、更にその一方で「アート」という文化がなぜだかあまり根付いていない現代日本において、「障害者アート」がもっともっと認知されて当たり前になって、そのもっと先に「アート」そのものが当たり前になった時、「健常者」の「アート」もけっこうええやん? みたいなことが起こったらオモシロいなあと夢想したりしている。
…とはいえ、やっぱり最後はXL氏のあまりにも清々しい言葉でしめていただきましょう!
はい!! ホンマにその通り!!!
木ノ戸