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さよなら、アール・ブリュット 〜前篇〜


「アール・ブリュット」ブームである。先日、好評裏に終了した主催展覧会「Enjoy! Open!! Swing!!! Vol.3 ART BRUT? NOT ART BRUT? 京都・左京区編」(以下、「EOS3」展)にも「アール・ブリュット」を観に来ましたとか、「アール・ブリュット」の展覧会をやっていると聞いて…といったお客さんが少なからずいたことには驚かされた。

うん。やはり「アール・ブリュット」ブームである。

スウィングは2015年を“昨今の「アール・ブリュット」ブームに疑問符を投げかける1年”と位置づけ、様々な形で問題提起を続けてきた。2015年2月開催の展覧会「Enjoy! Open!! Swing!!! Vol.2 特別な人なんてどこにもおらへんのちゃう?」からスタートしたこの取り組みが、一周回って(新しい年に入ってしまったけれども)「EOS3」展に帰ってきたというわけだ。この1年を振り返ってみて、「疑問符を投げかける」という批判的な姿勢は正直疲れるなあ…というのが率直な感想ではある。けれど僕たちが、地に足の着いたスウィングらしい、「Enjoy! Open!! Swing!!! 」な場づくりや発信をしてゆくためには、やっぱり避けては通れない、必要不可欠な期間だったのだとも確信している。そうしてこの1年間を駆け抜けた結果、かなりはっきりとした「答え」のようなものも見えてきた。いつまでも問題意識ばかりに囚われていても先に進めない。スウィングの「これから」を思い描いてゆくためにも、このあたりでその「答え」をまとめてみようと思う。




●「障害者アート」ブームを牽引する「アール・ブリュット」
そもそもなぜ、“昨今の「アール・ブリュット」ブームに疑問符を投げかける1年”などという発想を持つに至ったのか?
何も「アール・ブリュット」が憎かったわけじゃない。憎む理由も必要もないし、むしろ個人的にはかなり興味深い分野である。けれど昨今、(例えまだまだ内輪の盛り上がりに過ぎないにしても)「障害者アート」ブームともいうべき状況が確実にあり、そのブームはどんどん加速しているように実感している。そして「アール・ブリュット」という言葉こそがこのブームを強力に牽引し、同時にこのブームを象徴する言葉であることも、恐らく間違いないだろう。さらにはこのブームがいい事ずくめならば問題無いのであるが、そうでもない、これは色々な問題を孕んでいるぞ、なんか気持ち悪いぞと、多大なる「違和感」を感ぜずにはいられなかったのである。




先にも書いたが、「EOS3」展には「アール・ブリュット」を観に来たというお客さんがとても多かった。けれど正確に言えば、その人たちの多く(推定99%)は「アール・ブリュット」では無く、障害のある人が生み出したアートを観に来ていたのだと思う。良く知られる「アール・ブリュット」の定義として「“生の芸術”と訳される、フランスの芸術家ジャン・デュビュッフェが提唱した言葉」「美術の専門的な教育を受けていない人が、伝統や流行などに左右されずに自身の内側から湧きあがる衝動のまま表現した芸術」「美術史的な枠組みでは解釈し尽くすことができない、発表や評価を望まない自発的な表現」「 秘密・沈黙・孤独・独学」等々あるが、つまりは「障害者アート」(ここでは「障害者アート」という呼称の是非、定義等には触れない。だってものすごくややこしくなっちゃうから…)=「アール・ブリュット」では決してないのである。障害のある人が生み出すアートの“一部”には「アール・ブリュット」と称されるものがあるのかも知れないが、どうあれ、それはあくまで“一部”であって“全部”ではない。にも関わらず、多くの人が「障害者アート」と同義に「アール・ブリュット」という言葉を捉えており、これは全くの間違いなのだ。



●止まらない「障害者アート」=「アール・ブリュット」の(間違った)定着
なぜ、このような状況が生まれてしまったのだろうか?
「EOS3」展の開催にあたり、スウィング一同(ほぼ皆)で「アール・ブリュット」について話し合った際、『カッコいい感じのフランス語に便乗してるだけちゃうの?』という意見が複数あがった。

ズバリ、答えはこれなのだと思う。




誰も「障害者アート」などとは言いたくないのだ。「ちょっと「障害者アート」の展覧会、観に行ってくるわ〜」か「ちょっと「アール・ブリュット」の展覧会、観に行ってくるわ〜」。後者の方が圧倒的に“言いやすい”。「EOS3」展では『「障害者アート」や「アール・ブリュット」について思うことなんでも書いてね♡』というコーナーを設け、観る側がこのあたりをどんな風に考えているのか知るための仕掛けを作った(沼田君のアイディアである。ときどき本当にいい仕事をする)。



思惑どおり壁にペタペタと貼りつけられた付箋を見てゆくと、僕たちの問題意識に賛同を示してくれるもの、従来の純粋無垢的な障害者観をなぞってるんやなあ…と感じるもの、絵馬のように扱い、見当違いのことを書いているもの、全く意味の分からないもの(恐らくスウィングの面々の仕業だ)等いろいろあったが、ひとつひとつを丁寧に見て強く感じたのは、恐らく世の大多数の人は、(一見)差別的でない、それらしい言葉なら何でもいいんだな...「アール・ブリュット」ってやっぱりとっても便利なんだな…という深い納得であった。繰り返すがこれは批判ではなく、深い納得である(胸のつかえがスッと取れたような感じすらしたのだ)。「障害者アート」=「アール・ブリュット」の認識が定着しつつある現状において、鑑賞者が「障害者アート」と“言う代わりに”「アール・ブリュット」という言葉を用いることは、もう仕方のないことなのかもしれない(まあ、間違っているのだが)。



●一石二鳥の「アール・ブリュット」
一方、展覧会を催す側、つまり発信する側(多くは福祉施設だろう)についても考えてみたい。「「障害者アート」の展覧会を開催します!」か、「「アール・ブリュット」の展覧会を開催します!」。やはり発信する側にとっても後者の方が圧倒的に“気持ちいい”。しかし美術の専門用語を、(本来)強い意味性を伴う言葉を、こんなにお手軽簡単に口にしちゃっていいものだろうか?障害のある人が生み出す作品の中に「アール・ブリュット」と評されるものがあるとして、それはその名に相応しい優れた芸術作品で無ければならないだろう。それを自分たちから言ってしまうのって、障害のある人が描いたという(それもその多くは知的障害者だ)、ただそれだけの理由で「はい、これ、「アール・ブリュット」です!」って…いいのだろうか?




まあ、いいのだろう。それはあっちを向いてもこっちを向いても「アール・ブリュット」舞い踊る現状がやはり多くを物語っているし、どうやら「美術」の側からのクレームも無いらしい(実際にはある。でもなかなか聞こえては来ない)。
繰り返すが「障害者アート」=「アール・ブリュット」では決してない。けれど「アール・ブリュット」という言葉は、なんだかごにょごにょカッコよくって気持ちいい。さらには「障害者」という差別的な言葉を口に出さなくて済む。受信する側と発信する側の思いがここでピタリと一致する。この一石二鳥の構図こそが「障害者アート」=「アール・ブリュット」の間違った定着を加速させ続けている大きな要因のひとつなのではないだろうか。


ひらめき後篇に続く→

木ノ戸
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