今日は昼から出勤だ。 前の晩に外で酒を飲んだので車はスウィングに置きっぱなし。比叡平から2本のバスを乗り継ぎ、スウィングに向かうというよくあるパターン。 比叡平からのバスは基本的に1時間に1本しか走っていない。 乗り過ごしてはならないと、少し早めにバス停に着く。 バス停にはポツンと僕ひとり。周囲にも誰の姿も見えない。車もほとんど通らない。比叡平、平日の昼前。 静かだ。穏やかだ。ここは本当にいいところだ。
右手の方から静かにやってきたのは高級車、TOYOTAクラウン・ロイヤルサルーン。旧式の、しかも白いレースのカーテンとか付けてる、いかにもホンマのお金持ちが乗ってる感じのヤツだ。
…バス停の前、つまり僕の前でス〜ッと停まる。え?知り合い?比叡平にはそれなりに友人・知人多いが、このクラス(?)の知人がいたかどうか…。あ、なるほど!道を聞かれるんやな。よっしゃよっしゃ。
助手席側のサイドウィンドウがやはりス〜ッと開く。
車内には品の良さそうな初老の女性が運転席にひとり。こちらに身を近づけるようにしてにこやかにこう言う。
「乗って行きませんか?」
「…はい?」
思わず気の抜けたような返事を返してしまう。乗って行きませんか?誰が?オレが?なんで?
女性はにこやかに続ける。
「バス、なかなか来ないでしょう。ついでですんで乗って行きませんか?北白川まで」
「え、いいんですか?」
と言いつつ、素早く頭を巡らせる。比叡平から京都に向かう道は「山中越」と呼ばれる一本道。急なカーブの多い、基本下りの狭い山道である。車で約15分。バスももうすぐやって来るが、そりゃあ、車でスス〜ッと行けるのであればありがたい。しかし、常識的に考えてどうなのだろう?「知らない人についていっちゃダメ!」なのは現代社会の鉄則だし、今の僕はそのことを口酸っぱく子どもに言って聞かせている立場だったりもする。どうするべきか?
「すみません。じゃ、お言葉に甘えて」
はい、乗った。知らない人の車にひょいひょいっと乗った。なぜ乗ったのか?比叡平という土地が持つ雰囲気や女性から滲み出る人柄の良さも瞬時の判断に影響したに違いないが、何より70代と思しきこの女性にならどんなシチュエーションでも「勝てる!」、そう確信したからだ。例えおもむろに女性が腕を伸ばしてダッシュボードから銃を取り出そうとしても、僕の方が素早く強く、拳で女性の腕を叩くことができる。つまり勝てる!
広い真っ白な後部座席に乗り込む。車内は清潔に保たれ、ゴミ屑ひとつ落ちていない。そして女性の運転は思いのほか力強く、「山中越」でよく見るトロトロ運転の車とは全く質が違う。そして道中、女性は僕の警戒心を柔かく解くかのようにいろいろな話をしてくれた。比叡平には仲の良い友達(おそらくお金持ちが多い一丁目の方だ)が住んでいて、時々訪ねて来るのだということ。今日も行きは行きで北白川(京都市左京区北白川。比叡平への登り口にあたる)のバス停で待つ人を逆に比叡平まで乗せてきたのだということ。家は離れているが、北白川にはよく買い物に来ていた(きっとあの閉店した高級スーパーだ)のだということ等々。しかし、こんなにも品良く、そして淀みなく話す人にはこれまで出会ったことがない。「淑女」というのはきっとこういう人のことをいうのだろう。そしてこんなにも開けっぴろげに、見ず知らずの髭メガネに対して堂々と「親切」をしてしまえる女性のことを僕はすごいと思った。普通はできない。僕にはできない。アレコレ感激しているうち、やがて話題は僕の方に向かう。これからどこに向かわれるんですか?お仕事ですか?
「はい、仕事です。上賀茂の方で」
すると女性はさらっとこう答える。
「上賀茂ならうちの近くです。お勤め先の近くまで行きましょう。案内してください」
「行きましょう。案内してください」て、そんなんマジでええの!??…まあ、でも家が近いのなら今さら遠慮する必要もないだろう。僕は女性の親切に更に甘えることにした。でも上賀茂が近いってことは、ひょっとしてスウィングのご近所さん?めちゃくちゃ話の展開うまくしたらフーキーとかに繋がるかも?(←考え方が完全にゲスい。)
「上賀茂はどの辺りにお住まいなんですか?僕らの会社は南大路町です」
「上賀茂ではないんですよ。下鴨です」
はい。完全に超ハイクラス決定。下鴨のあのへんの人ですね。ハンパないっすね。(…という地域が京都・下鴨にはあるのだ!)
恐縮しながらガイドを続け、やがてロイヤルサルーンはスウィングのすぐ近くのクスの木の脇に停まる。丁寧にお礼を言いながら車を降りると、淑女はにこやかに、そして何事もなかったかのようにスス〜ッと行ってしまった。およそ40分の超常体験。一体なんだったのだろうか。お金だけじゃない。きっとあの人は本当の豊かさを持った人だったのだろう。世の中にはすごい人がいるものだ。「勝てる!」とか思った僕のミクロっぷりったらありゃしない…。
…とまあ、これはいいネタができた!とミクロマンは興奮しながらスウィングへ向かう。
いつもの「まあまあ」の人たちが「まあまあ」の顔をして「まあまあ」の仕事をしている。
「あんな!今日どうやってここまで来たと思う???」
ああ、やっぱりここが一番安心する。
木ノ戸