Swingy days Enjoy! Open!! Swing!!!

サイトトップへ戻ります。
(ひさびさ!)「障害者アート」考

CIMG4189.jpg

 

「障害者アート」や「アール・ブリュット」についてはスウィングなりに考え尽くしたし、もうとっくに距離を置いているつもりだけれども、それでもいろんな情報が入ってきたり、いろんな話が舞いこんできたりする。

※ 考え尽くした軌跡についてはだいたい以下のような感じになります。

 

ひらめきアブノーマライゼーション

http://garden.swing-npo.com/?eid=1400292

 

ひらめき展覧会「ART BRUT? NOT ART BRUT?」回想録

http://garden.swing-npo.com/?eid=1400291

 

ひらめきさよなら、アール・ブリュット

http://garden.swing-npo.com/?eid=1400317

 

ひらめき【寄稿】「別にすごくない」と言えること

http://garden.swing-npo.com/?eid=1400334

 

 

最近あらためて「障害者アート」について考える。

「障害者アート」という言葉に問題があるとするならば、それはそれほど難しいことではなく、本当にシンプルに、「この言葉によってイヤな思いをしている人がいる!」という、単純なことなんじゃないかなあと。

 

社会から与えられた自分の「属性」のようなもの、しかもあまり好ましい響きではない言葉が「アート」の「前」につくという、この状況。自分に置き換えて考えてみても、マジでイヤやなあと思う。

 

CIMG4192.jpg

 

このイヤな感じをもうちょっとだけ掘り下げてみようと、(最近は眉間に皺よせ、ワークショップの準備ばかりしている)沼田くんに投げかけてみたところ、「“「障害者」やのに”って感じがするからじゃないですかね」。

 

なるほど、確かに「障害者アート」という言葉からは、(それこそ言葉は悪いが)“「障害者」やのに”とか“「障害者」にも関わらず”という感じが漂っているように思う。少なくとも沼田くんと僕はそれを感じる。ではこの感覚を仮に「やのに感」と名づけて更に考えてみよう。

 

「糖尿病者アート」という言葉があるだろうか? 

多分ない。あったとしたらかなりの違和感がある。「やのに感」漂う。

 

「女性アート」はどうだろう? 

あるのだろうか? 知らない。あったとしたら色んな反発が色んなところで起こっていそうだ。「やのに感」かなり漂う。

 

「ブラックアート」。

これはもうあるジャンルだが、あまり違和感を感じない。恐らく黒人にしか確立できなかったアートが確実にあるし、なんかカッコいいとすら思ってしまう。「やのに感」もない。逆に強烈な誇りのようなものすら感じる。

 

「おかんアート」。

これも確立されつつあるジャンルだが、違和感が1周回ってイイ感じしかしない。作品を観る前から人の心をゆるませる力すらある(即ちこの言葉自体にアート性が宿っているとも言える)。「やのに感」はあるが、やはりイイ感じの「やのに感」である。

 

これらは全て僕の主観だし、ああだこうだ細かいことを議論するのはもうイヤ! というのが正直な気持ちだが、やっぱり「アート」は「アート」でいいんじゃね? と思うし、“ソレが「アート」かどうか?”というのは、むしろ観る人が決める、感じることが基本なんだと思う(「ピカソ? くっだらねー!」と言ってもいいのが「アート」というものだと思う)。

 

CIMG4188.jpg

 

こまりんは言う。

 

「「アート」として観る前に「障害者」の方を見られてるっていうか、「障害者」ってつくだけで、キラキラしてる感じがうれしい人が多いんじゃないですかねー」

 

そうね。「障害者」じゃなくって「その人」は「その人」でしかないのにね。

 

DSC_0028.jpg

 

便宜上、「障害者アート」という言葉を使わざるをえないこともあるし−先日も「障害者アートあるある」と題したトークイベントを思いっきり主催したばかり!−今の「障害者アート」ブーム(らしきもの)にスウィングが乗っかっている(?)ことも否定できない。

 

別にそんな深刻でもないのだが、こうしたある種の矛盾を抱えながらスウィングは日々を歩んでいる。

 

そして「障害者アート」ってなんかちょっとイヤな感じ! というこの感覚を、心のどこかに残しておくことはやっぱり大切なことなんじゃないかなあと思うし、更にその一方で「アート」という文化がなぜだかあまり根付いていない現代日本において、「障害者アート」がもっともっと認知されて当たり前になって、そのもっと先に「アート」そのものが当たり前になった時、「健常者」の「アート」もけっこうええやん? みたいなことが起こったらオモシロいなあと夢想したりしている。

 

 

…とはいえ、やっぱり最後はXL氏のあまりにも清々しい言葉でしめていただきましょう!

 

 

はい!! ホンマにその通り!!!

 

木ノ戸

| 考えごと | 14:33 | comments(0) | trackbacks(0)
「ありのまま」ということ

 

障害者は健常者と違って「ありのまま」に生きている? 

そうした姿を見て自分の生き方や不自由さを顧みる?

よく聞く、よく聞く。はいはい、偏見、偏見、ド偏見。

 

そういう人もいるかもしれないが、そうでない人もいる。

悩み多き人もいれば、割と気楽に生きている人もいる。

誰だって調子がいい時もあれば悪い時もある。

 

それがそれぞれ個別である“人間”の「ありのまま」の姿ではないのか?

そこに障害者うんぬん、何の関係があるのだろうか?

あなたが何かに深く悩んでいるなら、それがあなたの「ありのまま」ではないのか?

あなたが「常識」や「ルール」や「普通」や「規範意識」にがんじがらめになっているのだとしても、それがあなたの「ありのまま」ではないのか?

 

大切なのはいつだって、どんな状況だって、“自分の”「ありのまま」にOKを出し続けることだ。

ありのままでいい。今のままでいい。何にもいじくらなくったっていい。

 

楽しい時には楽しいままに。

嬉しい時には嬉しいままに。

哀しい時には哀しいままに。

しんどい時にはしんどいままに。

 

人は皆、生きてるだけで大仕事。

 

自分とは違う誰かを「他者化」し「対象化」し、さりげなく生み出される巧妙な「感動ポルノ」。

24時間テレビの方がまだずっとマシだぜ。

 

木ノ戸

| 考えごと | 15:44 | comments(0) | trackbacks(0)
【寄稿】「別にすごくない」と言えること


スウィングの芸術創作活動「オレたちひょうげん族」がスタートしたのは2008年のことである。大した見通しも持たず、ただ「描きたい人がいたから」という実にシンプルな理由ではじめた試みではあったが、その背景に「障害者アート」ブームとも言われる流れが既にあったことは間違いない。けれどその流れは、今のそれとは全く比べものにならない、まだまだひっそりとしたものだったように思う。あれからおよそ7年。「美術」と「福祉」の交差点のような場(今回のトークイベントのことだ)が生まれ、そのような場に自分が参加させてもらえるなんて、およそ想像もできなかったことだが、2020年オリンピック・パラリンピックに向け、どんどんと活気づく「障害者アート」ブームの中であれこれと考え、思いを巡らせ続けていると、そもそも僕たちがしたいのは「美術」ではなく、「福祉」なのだという根本を、強く強く意識するようになった。とりわけ僕たちは「障害福祉」を実践している身であるから、障害のある人たちが幸せに、心豊かに生きられる環境を作ることこそが目的であり、言い換えれば「美術」はそうした「福祉」を実現するためのひとつの手段なのである。このような観点から昨今の「障害者アート」の隆盛を見た時、最も気がかりなのが「障害者」=「芸術性に秀でた人」という新たなド偏見が出現し、そして着実に定着しつつあることだ。実際、「すごいぞ、これは!」展のフライヤーや図録にも「障害があるということは、アートに関して言うならば傑出した才能に恵まれているということなのです。」という「嘘」が堂々と書かれていたりするし、トークイベントの中では「すごいぞ、これは!」という展覧会タイトルそのものに異を唱えさせてもらった。その意図も趣旨も理解はできるが、この言葉に鑑賞者が作品を観る目線を偏らせてしまったり、既述したド偏見を強化させてしまう力があると考えたからだ。



しかしながら、美術のプロ達が「すごいぞ、これは!」と強く推薦する作品群を実際に観てみると、「確かにすごいな」とか「これのどこがすごいねん…」という、正に批評的な眼差しを自然と持たされたこともまた事実である。著名な芸術家は数多くいるが、人それぞれ好き嫌いがあるだろう。しかしながら、障害のある人が生み出したものについてはどうも「NO」が言いづらい、そんな雰囲気が世の中にあるように思う。そうではなく、「すごい!」と思うものには素直に感動し、心動かないものには「別にすごくない」と率直に感じること。鑑賞者がそうしたある種の強さを身に付けてゆくことが、「美術」にとっても「福祉」にとっても、新たな出発点になるのではないだろうか。

NPO法人スウィング 理事長 
木ノ戸昌幸


※ この文章は…

「すごいぞ、これは」展(高知会場)スペシャル・トークイベント記録
それらを愛でること・批評すること
−美術のまなざしは「障害のある人のアートになにができるのか?」

…より転載しました。
| 考えごと | 17:52 | comments(0) | trackbacks(0)
【ariya. 25号】一般就労 vs. 福祉就労 〜後篇〜 

                                            津軽海峡冬景色/西谷文孝/2015

(前編のあらすじ)
粉雪のように降り積もる紅蜂への恋心を振り払うかのように荒れ狂う日本海へとやって来た猿。ひとり岸壁に立ち「ワイは猿や…プロゴルファー猿や…」そう呟くように言いながらドライバーを構えた時、ふとこう思う。「…高波にのまれる人がいる。確実に毎年ニュースで聞く。ということは危ない時に高波を見に行く人の実数はもっともっと多いはずだ。それは一体どれくらいなのだろう?」「十倍くらいじゃない?自殺者にしたって何にしたって、そういうのって十倍くらいを実数だっていうじゃないの。一体どんな根拠があるっていうのかしらね。」— 驚いて振り返る猿の目に映る愛しい人の姿!…果たして紅蜂は猿を追ってきたのだろうか?…そして2人の許されぬ恋はどこへ向かおうとしているのだろうか?…ていうか猿はどうでもいい疑問を知らぬ間に口に出してしまっていたのだろうか?— 後篇に続く。


…はい、すみません。嘘です。(本当の)前篇については、スウィングのブログ「Swingy days」に転載(ネット検索、「アリヤ 24号 就労」で多分出てきます)しておりますのでそちらの方をご覧になっていただければ!もしくは「ariya.24号」のご購入を!(前篇はコチラ!→

…本題に入る。理想的とされる「一般就労」としゃあなし的に捉えられがちな「福祉就労」。このほぼ固定化して揺るぎない就労観に対して—少なくとも今のこの社会状況(年間自殺者3万人?過労死認定1,000人?もうとっくに破綻しているではないか)にあっては—大いなる疑問を抱かざるを得ない。僕はこれまでの僕自身の人生を通して、いい大学に入って、いい会社に入って…といった、いわば王道の価値観を(心身ともに)“ただの一度も”腑に落とすことができなかった。そしてそうできないことに対し、酷く苦しんだ時期もあった。僕なりの苦悶苦闘の末、「毎日笑えるよ」という友人の言葉に導かれ、この障害福祉業界に足を踏み入れたのが25歳の頃。そこに儲かるとか儲からないとか、生活をしてゆけるとかゆけないとかの計算は(残念ながら)一切無く、「毎日笑えるのであればそれは最高だ!」というこの上なくシンプルな思いだけで人生の舵をひょい!と切ったというのが嘘偽りない事実である。つまりこうした僕自身の個人的背景が「一般就労」万歳!「福祉就労」残念!的な雰囲気に対し、問題意識を向けることの発端になっているには違いないのだが、近年、この問題意識を更に良い意味で混乱させるような、あるいは具体性を伴って深めさせてくれるような人々が、スウィングという場に続々とやって来たのである。

男ド演歌・山川豊似、四十を超えたばかりの(一見)シブい男、キョウイチさん。キョウイチさんは20年間の「一般就労」(木材店勤務)の果て、会社の都合によりクビとなり、およそ4年前にスウィングにやって来た。寡黙、実直、クソ真面目。誰とも必要以上の会話をせず、ただ黙々と仕事に打ち込む無表情な男の姿は、スウィングでの日々を一日一日積み重ねるうち、正に劇的に変わってゆくこととなる。会話が増え、笑顔が増え、冗談が増え、増え、増え、増え、遂にはくだらない冗談しか言わないような人へと物の見事に様変わりしたのだ。木材店勤務時代の20年間、キョウイチさんは殆ど誰とも口を聞かず(言葉を交わす相手がおらず)、無論冗談など“ただの一度も”口にせず、ひたすら同じ作業を繰り返す日々だったという。更に驚いたことに、当時それなりの収入を得ていたキョウイチさんは…にも関わらず“銀行への処し方”を一切知らなかったというのだ。毎月の給料は銀行口座へと振り込まれるが、お金を下ろす方法は分からない。でも自分の手には給与明細というものがある。よし、今月も頑張った。どうやらここに書かれている金額が銀行に振り込まれている「らしい」。…なんとキョウイチさんはこの「らしい」だけを頼りに、20年という長い歳月を、ただ黙々と、本当にただ黙々と働き続けたのである。(結果として残った相当額の預金が、現在のキョウイチさんの生活費となっている。)

僕はキョウイチさんのこの強烈な20年と、その後のスウィングでの変貌ぶりに多くの思いを寄せずにはいられない。(そこにはキョウイチさんの持つ障害とか家庭環境とか色々な要素が含まれているには違いないが、事の本質とは関係無いと思う。)今、キョウイチさんは笑顔で語る。「まさか友達ができるとは思ってなかった」と。スウィングという「福祉就労」の場にやって来て、キョウイチさんの収入は激減した。けれどキョウイチさんが得たものの大きさは「効率」や「お金」といった尺度では決して測り得ないものであり、そうした価値がこの世の中に確実にあるのだということをはっきりと教えてくれる。「お金」とは何なのだろう?働くとは何なのだろう?そして人が生きることとは何なのだろう?

…とかなんとか言ってるうちに後篇でも全然終わらず!だってキョウイチさん、オモロすぎるんやもん!というわけで次号、「後篇の次」に続く。

木ノ戸昌幸(NPO法人スウィング 理事長)


※ この文章は「ariya. 25号」より転載しました。




ひらめきアリヤ ariya. とは? 〜始まりは、小さな一歩。〜
アリヤは、福祉施設で作られる製品や福祉の活動を中心に紹介します。製品の良さを知ってもらい、購入してもらうことで、障害者の雇用促進と自立支援をめざしています。印刷は福祉工場で行っており、購読料の一部は障害のある方々の工賃に繋がります。アリヤは、広告に頼らず、読者が支える本です。ひとりひとりの存在は小さいけれど、みんなで助け合い、支えあえばきっと誰もが幸せに生きていけるはず。地に足をつけ、蟻の目線でゆっくり歩いて行きたい。そんな思いをこめて『蟻の家=アリヤ』と名付けました。(アリヤWEBサイトより)

→ アリヤ ariya. 
http://www.arinoie.com  
| 考えごと | 16:17 | comments(0) | trackbacks(0)
まいど!我々スウィングは『社会福祉』をやっております!

Good Job! Document vol.05「The Modernology of Good Job! -Good Job!考現学-」
 (リサーチ・文:津田和俊[Fablab Kitakagaya] 絵:望月梨絵[Fablab Kitakagaya])


スウィングは2006年の設立以来、健常も障害もクソもない、小さな「一市民」がゴニョゴニョ寄り集まって、「社会をより良く変えてゆこう!」と市民活動を展開する、「NPO」としてのスタンスにこだわり続けてきた(つもりである)。

また、この国における余りに狭い(ひとごと感満載な)福祉観と、そうした福祉観に基づく「社会福祉施設」と呼ばれる「場」の在り方に大きな違和感を覚え、「社会福祉施設」が“その場で完結してしまう福祉”や“その人のためだけの福祉”ばかりしていてはダメなのだと、社会を幸せにするための福祉、つまり『社会福祉』をせなあかんのや!と言い続けてきた(つもりである)。

で、最近…。
あれ?市民活動と『社会福祉』って(ほぼ)いっしょじゃないか!と気づいたのだ。いや、今までも分けて考えてきたつもりは全く無いのだが、改めてピタリ!と符合したというか何というか…。

で、やはり最近…。
(「貨幣経済」ではない本質的な)「経済」の意味を知り(→)、あれ?これも『社会福祉』と(ほとんど)いっしょやないけ!と気づいたのだ。これは意外だった。「経済」=金儲け…みたいな狭量な価値観が自分の中にもしっかりと根付いてしまっていたのだろう。

まあ、その道のプロみたいな人に言わせれば間違っているのかもしれないが、僕の中ではヤバいくらいしっくりキまくっていて、ああ、そうか!スウィングは市民活動と同時に『社会福祉』をしてきたのか!あるいは経済活動みたいな『社会福祉』をしてきたのか!と納得しまくっているのである。

大して具体的なイメージも無いくせに、“狭い「障害福祉」の枠を超える”と意気込みだけはでっかくスウィングをはじめて丸10年。ついこの間まで「ああ僕?僕の仕事?福祉です」と、ちょっと言いづらい自分がいた。それは恐らく、超えたい狭い「障害福祉」の枠の中に、自分がまだいたからなのだと思う。

でも、今は違う。「僕の仕事は福祉です!スウィングというところで、みんなで『社会福祉』をやっております!」と堂々と言うことができる。…いや、やっぱこれウソです。「いいことしてはるね〜」とか言われるから相変わらず答えにくいことは答えにくいです。

スウィングは障害のある人を、余りに一面的な福祉の、余りに限定的な「対象者」として捉えない。
スウィングでは障害のある人も無い人も、あるいは障害のありそうな人も無さそうな人も、それぞれが『社会福祉』の「主体者」であり「実践者」なのだ。
だって「世の中(社会)をより良くしたい!オモシロくしたい!」−これがスウィング流の『社会福祉』の捉え方だ−という思いに障害の有無なんて関係ないし、『社会福祉』ったって何もそんな大袈裟に考える必要はないのである。



2月のある日。
「スウィングのファンです。そして辛いときにはKAZUSHIくんの絵(ストリップショー)を見て元気をもらっています」 、そんな電話をいただいた(電話の主は偶然にも僕の故郷・愛媛県の女性だった)。その時、僕は思う。「KAZUSHIくんは『社会福祉』をしている!」と。



向井さんの詩をFacebookにアップする。
多くの人の笑い声が聴こえる。忙しい日常からひと時解き放たれた脱力を感じる。その時、僕は思う。「わあ!やっぱり向井さんも『社会福祉』をしている!!」と。



そうちゃんとちなさんの変態的な“こだわり”をブログに書く(→★)。
自閉症という障害を持つ2人の様子が、オモシロ・オカシク世間に伝わる。その時、僕は思う。「そうちゃんとちなさん、そして2人の“こだわり”に同行した沼田君(ゴミブルー)やあちゃみちゃん(カメラマン)やブログを書いた西川くんは、やっぱりやっぱり『社会福祉』をしている!!!」と。

忙しない日々に追われて笑顔を忘れてしまったどこかの誰かを、ちょっとでも笑わせられればそれで十分!イッツ・ア・社会福祉!!

常識や固定観念に囚われてカチコチに硬くなってるどこかの誰かを、ちょっとでも弛められればそれで十分!イッツ・ア・社会福祉!!

それぞれがそれぞれの在り方ややり方で、小さな小さな『社会福祉』を積み重ねてゆければ、ちょっとずつ、けれど確実に世界は変わってゆく。僕たちはそう信じている。

ああ僕?僕の仕事?
僕の仕事は福祉です!スウィングというところで、みんなで『社会福祉』をやっております!

木ノ戸
| 考えごと | 18:21 | comments(0) | trackbacks(0)
さよなら、アール・ブリュット 〜後篇〜


ひらめき前篇はこちら→

●「アール・ブリュット」ってどんな色?
「障害者アート」=「アール・ブリュット」という間違った構図が定着しつつあるのは、「アール・ブリュット」という言葉が ― 少なくともこの日本においては ― 誰もがどうとでも解釈できてしまう、いわば(まるで日本の政治によく見られるような)「玉虫色」の言葉になってしまっていることも、大きな要因のひとつなのではないだろうか(玉虫って本当にいる虫なの?)。
玉虫の気配は当然ずっと感じてきてはいたが、その確信を得たのは「公立美術館におけるアールブリュット作品の普及・展示活動に関する調査研究事業報告書」(編集・発行:滋賀県立近代美術館/発行日:平成27年3月)に触れる機会を得たことが大きい。この丁寧で真摯な調査・報告には心底感激した。日本の「アール・ブリュット」の現状をここまで詳細に調べ上げ、一冊の報告書にまとめあげるのは並大抵の労力ではなかったろうと思う。心から敬意を表したい。と同時に、この報告書のまとめの部分、「調査の総括と今後の展望/1.アール・ブリュットという言葉の多義性」に目を通すと、調査者による正直な言葉が並ぶ。

「調査を通して見えてきたことは、アール・ブリュットという言葉の受け止め方は、1人1人で微妙に、時には完全に異なっている、ということである。更に言えば、異なる分野でその捉え方が異なるだけではなく、同じ分野の中でさえ、立脚する場所が異なるとまるでまったく別の概念について話し合っているような状況に陥ることがある」(以上、引用)。




…アカンやん。

でも本当のことである。僕、全部、読んだ、一気に。
この業界(?)の名だたるトップランナーたちが、「アール・ブリュット」という、ある「美術」の一ジャンルについて、それぞれがまるで違う解釈を述べているのだ(もちろん一般的に用いられる、よく聞く定義を述べている方もいらっしゃる)。「多義性」と言えば多少聞こえはいいが、つまりはやっぱり「玉虫色」なんである。十人十色どころか100人に聞けば100人が違う解釈を返す、そんな超玉虫な感じの「アール・ブリュット」を公立の美術館が常設展示するなんて、本当に本気でマジなのだろうか?こんなええ加減な言葉を、本当に本気でマジで使っていいのだろうか?しかし「玉虫色」なればこそ、「アール・ブリュット」はその何となくそれっぽい、どうとでも取れる響きを最大の武器として、今後ますます「障害者アート」の代名詞として世間に浸透し続けるだろう。少なくとも2020年まではこの流れはどうにも止まりそうもない。




●ええやん!アウトサイダー・アート!
そもそも「アール・ブリュット」という言葉の前に使われていたのは、今はもうほとんど聞かれなくなった「アウトサイダー・アート」という言葉だった。それがある時期(恐らく2010年頃)を境に「アール・ブリュット」という言葉に、段々と着々と“移行”したように感じる。それは恐らく「アウトサイダー・アート」という言葉に差別的な響きがあることを、「福祉」の側が敏感に感じとったことが理由であろう。「何で障害のある人がアウトサイダー、言われなあかんねん!」「ここがアウトサイドやったら、じゃあインサイドってどこやねん!」と。しかし冷静に考えてみれば、元々この「アウトサイダー・アート」という言葉は、「アール・ブリュット」の英訳なのである。つまり「アウトサイダー・アート」から「アール・ブリュット」へ言葉をすり替えたところで問題の本質は何ら解決しておらず…いや、むしろ問題をうやむやにしたに過ぎないのではないか。




スウィングは「アール・ブリュット」も「アウトサイダー・アート」もな〜んも要らない、ただの「表現」(あるいは絵の場合は、ただの「絵」)でいいと考えている。We just enjoy HyoGen!!である。それはこれからも、きっとずっと変わらない。だが、それでも「スウィングはんの作品は何のジャンルでっか?」としつこく問われることがあるとしたら、「アウトサイダー・アート」と答えればいいんじゃないかと(今さら遅いだろうが…)今は思っている。実際、現実を直視すれば、障害のある人たちがまだまだ社会のアウトサイドに立たされているのは紛れもない事実だと思うし、「そのような状況を生み出している社会とは何か?そしてそのような状況をどのように変えていけばいいのか?」、このような問いに真っ向から向き合い、考え、議論を重ねてゆくための(ある意味、極めて福祉的な)力やきっかけを、この言葉が持っていると感じるからだ。さらに個人的な意見を述べるならば「アウトサイダー」って、ごにょごにょフランス語の「アール・ブリュット」より、パキッ!として、なんかちょっとカッコいいやん?と思ったりもするのである。



●アブノーマライぜ―ション
「障害者アート」=「アール・ブリュット」の定着以上に、僕たちが最も問題視しているのは「障害のある人」=「芸術性に秀でた人」という、根拠なき新たなド偏見が、明らかにあらわれはじめていることだ。このド偏見の定着には、やはり「アール・ブリュット」が持つ、何となくそれっぽい、カッコいい感じの“響き”が大きく影響しているものと思われる。そしてひとりひとり、当たり前に違う障害のある人たちが、「芸術性に秀でた人」というちょっとイイ感じのド偏見に、(恐らくちょっとイイ感じゆえに)乱暴に括られてゆく。これはもちろん「アール・ブリュット」だけが孕む問題では無く、障害のある人によるアートを取り巻く現状全体(もちろん、スウィングも含まれる)が生み出しているものだと言えるだろう。この完全に誤ったド偏見については『「障害者」になってみろ!』『「才能」に障害のある・なしは関係ないやろ。』『障害者だっていろいろ。アートだっていろいろ。くくらんといて欲しい。くくりんぱ!』(くくりんぱ!は職権乱用で僕が追加した)という、スウィングの面々からの言葉を添えて、先に書いたテキスト「アブノーマライゼーション」(→)を読んでいただければと思う。




●さよなら、アール・ブリュット
この1年間、「どんなきっかけであっても障害のある人のこと、障害のある人が生み出すアートのことをより多くの人に知ってもらえればいいんではないか?」という意見もよく聞かされてきた。「それの何が悪いのか?」と。分かる。とても分かる。でも承服はできない。なぜなら「障害者アート」=「アール・ブリュット」は嘘であり、間違いだからだ。嘘は嘘だし、間違いは間違い。嘘や間違いを知ってもらうきっかけにするなんて、それはどう考えても当たり前におかしい。先生に叱られる。バケツを持って廊下に立たされてしまう。
そして言葉に先導され、創り出されるブームは遅かれ早かれ終わってしまうだろう。そう、ブームはまさしくブームに過ぎないのだ。本物は言葉に依らない。むしろ言葉は後からついてくるべきものだ。2020年オリンピック・パラリンピックに向けて突き進む、今の「アール・ブリュット」ブームに利用されてしまってはいけない。むしろどうせ止められない流れなら、いつか終わってしまうブームなら「いっそ利用してやるぜ!」くらいのしたたかさを持って、「その先」を見据えた冷静な現状認識と勇気を持った行動が必要なのだと思う(きっとこのテキストもブームを利用しているのだろう。上手く利用できていればいいが…)。




僕たちは「福祉」を実践するものである。誰もが他の誰でもない、自分にしかできない生き方を生きられる世界を創ろうと、日々を奮闘するものである。アートは素晴らしい。しかしアートは手段に過ぎない。手段を目的と錯覚してはいけない。錯覚をぶっ飛ばす、揺るぎない理想を持たねばならない。アートに、言葉に、大きな力に振り回されてはいけない。社会の片隅で巻き起こされる、小さくとも丁寧な、そして鋭く力強いアクションと挑戦の積み重ねが、世界を、未来を、きっと少しずつ変えてゆくのだ。

…とか何とかカッコよくまとめかけたところで、「勝手に熱くなるな」とXLさんのありがた〜いお言葉が舞い降りてきた。





『どうでもいい。ややこしい。じゃまくさい。』


はい。すみません。
さよなら、アール・ブリュット。

木ノ戸
| 考えごと | 17:20 | comments(0) | trackbacks(0)
さよなら、アール・ブリュット 〜前篇〜


「アール・ブリュット」ブームである。先日、好評裏に終了した主催展覧会「Enjoy! Open!! Swing!!! Vol.3 ART BRUT? NOT ART BRUT? 京都・左京区編」(以下、「EOS3」展)にも「アール・ブリュット」を観に来ましたとか、「アール・ブリュット」の展覧会をやっていると聞いて…といったお客さんが少なからずいたことには驚かされた。

うん。やはり「アール・ブリュット」ブームである。

スウィングは2015年を“昨今の「アール・ブリュット」ブームに疑問符を投げかける1年”と位置づけ、様々な形で問題提起を続けてきた。2015年2月開催の展覧会「Enjoy! Open!! Swing!!! Vol.2 特別な人なんてどこにもおらへんのちゃう?」からスタートしたこの取り組みが、一周回って(新しい年に入ってしまったけれども)「EOS3」展に帰ってきたというわけだ。この1年を振り返ってみて、「疑問符を投げかける」という批判的な姿勢は正直疲れるなあ…というのが率直な感想ではある。けれど僕たちが、地に足の着いたスウィングらしい、「Enjoy! Open!! Swing!!! 」な場づくりや発信をしてゆくためには、やっぱり避けては通れない、必要不可欠な期間だったのだとも確信している。そうしてこの1年間を駆け抜けた結果、かなりはっきりとした「答え」のようなものも見えてきた。いつまでも問題意識ばかりに囚われていても先に進めない。スウィングの「これから」を思い描いてゆくためにも、このあたりでその「答え」をまとめてみようと思う。




●「障害者アート」ブームを牽引する「アール・ブリュット」
そもそもなぜ、“昨今の「アール・ブリュット」ブームに疑問符を投げかける1年”などという発想を持つに至ったのか?
何も「アール・ブリュット」が憎かったわけじゃない。憎む理由も必要もないし、むしろ個人的にはかなり興味深い分野である。けれど昨今、(例えまだまだ内輪の盛り上がりに過ぎないにしても)「障害者アート」ブームともいうべき状況が確実にあり、そのブームはどんどん加速しているように実感している。そして「アール・ブリュット」という言葉こそがこのブームを強力に牽引し、同時にこのブームを象徴する言葉であることも、恐らく間違いないだろう。さらにはこのブームがいい事ずくめならば問題無いのであるが、そうでもない、これは色々な問題を孕んでいるぞ、なんか気持ち悪いぞと、多大なる「違和感」を感ぜずにはいられなかったのである。




先にも書いたが、「EOS3」展には「アール・ブリュット」を観に来たというお客さんがとても多かった。けれど正確に言えば、その人たちの多く(推定99%)は「アール・ブリュット」では無く、障害のある人が生み出したアートを観に来ていたのだと思う。良く知られる「アール・ブリュット」の定義として「“生の芸術”と訳される、フランスの芸術家ジャン・デュビュッフェが提唱した言葉」「美術の専門的な教育を受けていない人が、伝統や流行などに左右されずに自身の内側から湧きあがる衝動のまま表現した芸術」「美術史的な枠組みでは解釈し尽くすことができない、発表や評価を望まない自発的な表現」「 秘密・沈黙・孤独・独学」等々あるが、つまりは「障害者アート」(ここでは「障害者アート」という呼称の是非、定義等には触れない。だってものすごくややこしくなっちゃうから…)=「アール・ブリュット」では決してないのである。障害のある人が生み出すアートの“一部”には「アール・ブリュット」と称されるものがあるのかも知れないが、どうあれ、それはあくまで“一部”であって“全部”ではない。にも関わらず、多くの人が「障害者アート」と同義に「アール・ブリュット」という言葉を捉えており、これは全くの間違いなのだ。



●止まらない「障害者アート」=「アール・ブリュット」の(間違った)定着
なぜ、このような状況が生まれてしまったのだろうか?
「EOS3」展の開催にあたり、スウィング一同(ほぼ皆)で「アール・ブリュット」について話し合った際、『カッコいい感じのフランス語に便乗してるだけちゃうの?』という意見が複数あがった。

ズバリ、答えはこれなのだと思う。




誰も「障害者アート」などとは言いたくないのだ。「ちょっと「障害者アート」の展覧会、観に行ってくるわ〜」か「ちょっと「アール・ブリュット」の展覧会、観に行ってくるわ〜」。後者の方が圧倒的に“言いやすい”。「EOS3」展では『「障害者アート」や「アール・ブリュット」について思うことなんでも書いてね♡』というコーナーを設け、観る側がこのあたりをどんな風に考えているのか知るための仕掛けを作った(沼田君のアイディアである。ときどき本当にいい仕事をする)。



思惑どおり壁にペタペタと貼りつけられた付箋を見てゆくと、僕たちの問題意識に賛同を示してくれるもの、従来の純粋無垢的な障害者観をなぞってるんやなあ…と感じるもの、絵馬のように扱い、見当違いのことを書いているもの、全く意味の分からないもの(恐らくスウィングの面々の仕業だ)等いろいろあったが、ひとつひとつを丁寧に見て強く感じたのは、恐らく世の大多数の人は、(一見)差別的でない、それらしい言葉なら何でもいいんだな...「アール・ブリュット」ってやっぱりとっても便利なんだな…という深い納得であった。繰り返すがこれは批判ではなく、深い納得である(胸のつかえがスッと取れたような感じすらしたのだ)。「障害者アート」=「アール・ブリュット」の認識が定着しつつある現状において、鑑賞者が「障害者アート」と“言う代わりに”「アール・ブリュット」という言葉を用いることは、もう仕方のないことなのかもしれない(まあ、間違っているのだが)。



●一石二鳥の「アール・ブリュット」
一方、展覧会を催す側、つまり発信する側(多くは福祉施設だろう)についても考えてみたい。「「障害者アート」の展覧会を開催します!」か、「「アール・ブリュット」の展覧会を開催します!」。やはり発信する側にとっても後者の方が圧倒的に“気持ちいい”。しかし美術の専門用語を、(本来)強い意味性を伴う言葉を、こんなにお手軽簡単に口にしちゃっていいものだろうか?障害のある人が生み出す作品の中に「アール・ブリュット」と評されるものがあるとして、それはその名に相応しい優れた芸術作品で無ければならないだろう。それを自分たちから言ってしまうのって、障害のある人が描いたという(それもその多くは知的障害者だ)、ただそれだけの理由で「はい、これ、「アール・ブリュット」です!」って…いいのだろうか?




まあ、いいのだろう。それはあっちを向いてもこっちを向いても「アール・ブリュット」舞い踊る現状がやはり多くを物語っているし、どうやら「美術」の側からのクレームも無いらしい(実際にはある。でもなかなか聞こえては来ない)。
繰り返すが「障害者アート」=「アール・ブリュット」では決してない。けれど「アール・ブリュット」という言葉は、なんだかごにょごにょカッコよくって気持ちいい。さらには「障害者」という差別的な言葉を口に出さなくて済む。受信する側と発信する側の思いがここでピタリと一致する。この一石二鳥の構図こそが「障害者アート」=「アール・ブリュット」の間違った定着を加速させ続けている大きな要因のひとつなのではないだろうか。


ひらめき後篇に続く→

木ノ戸
| 考えごと | 21:31 | comments(0) | trackbacks(0)
アブノーマライゼーション
文・木ノ戸昌幸(NPO法人スウィング理事長)

友人のゆきちゃんが、とあるテレビ取材を受けた。テーマは「いきいきと子育てをする母の姿」。地方局の、たった5分という放送時間だったが、ゆきちゃんは悩みに悩み苦しんだ。メディアが視聴者受けする最大公約数を伝えたがること、場合によっては事実と異なったことや自分の意に反したことすら伝えようとする危険性を、重々承知していたからだ。そして何より彼女が恐れたのは、重度の障害のある我が子が必要以上にクローズアップされ…“にも関わらず”頑張って笑顔で生きてます!という予定調和的な、あるいはお涙頂戴的な(つまり24時間テレビの念押し的な)ママの姿が映し出されることであった。そういうのはもうたくさんだ。実際そんな風に生きてもいないのに、メディアや視聴者の思惑通りに消費され、安直な美談の再生産に加担することになったらどうしよう…。そうしてゆきちゃんは決して短くない1ヶ月という取材期間中、頭を抱え悩みに悩み、取材陣と真剣な話し合いを重ねたのだった。5分という時間が持つ重みや責任に、真っ向から対峙して。(先日、放送された番組を見たが、“ただの”母として生きる彼女の姿が、“誤解を招かない範囲”で丁寧に映し出されていたように思う。)

「アール・ブリュット」とは何か?
「“生の芸術”と訳される、フランスの芸術家ジャン・デュビュッフェが提唱した言葉」「美術の専門的な教育を受けていない人が、伝統や流行などに左右されずに自身の内側から湧きあがる衝動のまま表現した芸術」「美術史的な枠組みでは解釈し尽くすことができない、発表や評価を望まない自発的な表現」「 秘密・沈黙・孤独・独学」等々言われているが、これらをベースに「ART BRUT? NOT ART BRUT?」という問いを考えてみた時、少なくともスウィング「オレたちひょうげん族」の場合は違うんじゃないかなあと思う。美術の専門的な教育を受けていないのはそうらしいが、そんな言うほど衝動とか無さそうだし、思い切り発表を望んでいるし、賑やかだし、孤独じゃないし、別に何でも無くったっていいじゃないか、というのが「オレたちひょうげん族」を始動して以来、全く変わらない率直な気持ちである。そもそも福祉施設が「ソレが美術的に何なのか?」を決められる立場にあるのかという点についても甚だ疑わしい。一方、まさに全国各地、至るところで「アール・ブリュット」という言葉を冠した展覧会が続々と催されている様子を見ていると、強い意味性を伴う言葉を用いることへの責任感、そしてその言葉から漏れ落ちてしまうものや人への眼差しが、決定的に欠けているように感じる。「アール・ブリュット」というフンワリそれらしい、キャッチーな言葉が非常に有効!との判断なのだろうが、危ないなあ…と思う。




そして僕たちが最も懸念するのは、「アール・ブリュット」に牽引されるように「障害者アート」が隆盛するにつれ、“障害者=優れた芸術を生み出す人”といった新たなド偏見が顕出しつつあることだ。「障害者が描いた絵?やっぱりすごいわねえ…」と感嘆する声が聞こえる。「何が“やっぱり”やねん!」と出せる限りの大声でツッコミたいところだが、こうした感嘆の声を引き出し、障害のある人への偏見を強化してしまっているのは、他ならぬ僕たちなのではないか。またある人は言う。『「アート」に障害のあるなしは関係ないと思っていたが、「オレたちひょうげん族」の作品にはなぜか不思議な魅力を感じている。障害者といわれる方の作品には、何か特殊な力があるのだろうか?』…何ということだ!これは僕のおかんの言葉(フリーペーパー「Swinging Vol.18」掲載)ではないか!ああ、おかん!せっかく偏見持ってなかったのに!ああ、おかん!息子の仕事のせいで、息子がいちばん望んでないパターンにハマりつつあるやん!おかん…そうじゃないねん…。僕ら「ノーマライゼーション」どころか「アブノーマライゼーション」やってもうてるやん…。おかん…また今度ゆっくり話させて…。

僕たちにはもっともっともっともっと、丁寧さ ― ゆきちゃんがたった5分に費やした、あの丁寧さのような ― が必要なのかもしれない。終わらない試行錯誤を繰り返し、「オレたちひょうげん族」の旅は続く。

(展覧会「ART BRUT? NOT ART BRUT?」より)
| 考えごと | 14:11 | comments(0) | trackbacks(0)
【ariya. 24号】一般就労 vs. 福祉就労 〜前篇〜

                                                      カメ/安東遠 /2014

障害福祉業界には「一般就労」「福祉就労」という言葉がある。(障害福祉業界“外”の友人に対して、この「一般就労」について熱く語っていると、何やら不思議そうな顔をしている。うまく話が通じない。普段、当たり前に使い過ぎていて気づかなかったが、そうか、これは業界用語だったのか。)「一般就労」は「企業就労」とも言ったりするが、簡単に言えば障害のある人が一般企業で就労すること、対して「福祉就労」とは、障害のある人が福祉施設で就労することを意味する。

最近、僕はこの2つの就労の違いがよく分からなくなって混乱している。

この業界、あるいは社会を取り巻く空気の中に、「一般就労」の方が「上」で「福祉就労」は「下」…という価値づけが間違いなくあり、これまでもそうした価値づけについて「なんでやねん!」という思いはあったものの、同時になぜ「一般就労」を「上」とするのか、何となく(いや、確実に)分かる感じもあった。けれど最近、本当に分からなくなってきたのだ。いやいや、ただの働き方の違いであり、上下の問題ではないのではないか?何を狂ったように「一般就労!一般就労!」言っているのか?良かれ良かれとされる「一般就労」にデメリットはないのか?そもそも2つに分ける必要さえないのではないか? と、猛烈に疑問符が湧いてきたのである。

…つい今しがた、絶妙のタイミングでこんなFAXが届いた。「ご案内/A型・B型事業所から一般就労へ」。続いてこんなリード文が続く。「あなたの事業所の…あの人、この人の“働く力”“働きたい思い”を“かたち”にするサポートをします。」…いちゃもんを付けたいわけではないが、バカにしているのかと思う。現に一生懸命働いている人の“働きたい思い”を“かたち”に…って、一体どういうセンスやねん!ついでに言うたら「一般」てなんやねん!「福祉」は「一般」と違うてか!(そう、この「福祉」を「一般」の外に置くという感覚…。これはどうも就労の場面に限ったことではなく、相当根が深い。)

「一般就労」を否定する気はまるで無い。そんな否定には何の意味も無いし、「一般就労」を望む人がいて、その願いが叶い、その人が幸せであればこれはもう言うことが無い。しかしながら一方で、昨今の「一般就労」押せ押せムードには「ホンマにそればっかりでいいの?」と大きな不安を感じるし、「一般就労」とひと言でいえど、それは一体誰のため?何のため?と、色々と勘繰りたくもなってしまう。実際、スウィングには「一般就労」を経験した人も多く、その数はスウィングの総メンバー数(26名)のおよそ半数に及ぶ。そして、そのほとんどが「クビ」という形で終わりを告げられ、スウィングという「福祉就労」の場で働く現在に至っている。

「一般就労」が業界特有の用語であることが示すように、障害のある人が一般企業に就職することは、そうでない人に比べてなかなか難しい…というより“合わない場合が多い”のは明らかである。これは障害のある、その人固有の問題ではなく、むしろ「効率」を最優先とする社会構造や産業構造の問題といえるだろう。障害そのものが障害となるのではなく、暮らしてゆくことや働くことに不自由が生じた時、それははじめて障害となる。飽きることなく「効率」を追い求めるこの社会の中にあって、障害者がどんどん増やされてゆく。社会が掲げる標準に「合わない」人が障害者という括りにカテゴライズされてゆく。そして「合わない」という烙印を押された人たちが、なぜか再び「合わせる」ことを強いられ、あるいは「合わせる」ことを望んでいる。僕には「一般就労」というものの在り方が、時としてこのように歪んで見える。

「福祉就労」は「効率」という一面的な尺度から取り残されたダメな就労の形なのだろうか?「効率」は「収益」に繋がり、「収益」とはすなわち「お金」である。ならば就労とは、お金だけを追い求めることなのだろうか?「Mr.Children」が「そんな時代さ〜♪覚悟はできてる〜♪」と歌った時代よりも間違いなくそんな時代なこんな時代である。甘いと言われようが何と言われようが、自殺者が年間3万人を超え、「一般就労」といわれる場で過労死する人は年間約1,000人(労災認定件数。実態は…?)にも及ぶという。益々こんな時代だからこそ、むしろ「福祉就労」の持つ価値や意味が逆に高まっているとは考えられないだろうか。僕たちはもっともっと「福祉就労」という在り方に、胸を張り、誇りを持つべきなのではないだろうか。実際、今「福祉就労」の場で、「福祉就労」の場ならではの、「福祉就労」の場だからこそ出来る商品の数々が世に流通し、共感を持って迎えられつつある。また、スウィング・メンバーの中にも、一面的な就労観を引っくり返すような多様でオモロい就労の在り方を示す人々が、次々に現れ出てきている。

果たして福祉施設は、まだ見ぬ「一般」社会へ巣立つ準備をする、中間施設に過ぎないのだろうか?「福祉就労」は「一般就労」に劣る、永遠のモラトリアム期間なのだろうか?うまい感じに含みを持たせつつ、後篇では実例を交えて考えてゆきたい。(続く。)

木ノ戸昌幸(NPO法人スウィング 施設長)


※ この文章は「ariya. 24号」より転載しました。




ひらめきアリヤ ariya. とは? 〜始まりは、小さな一歩。〜
アリヤは、福祉施設で作られる製品や福祉の活動を中心に紹介します。製品の良さを知ってもらい、購入してもらうことで、障害者の雇用促進と自立支援をめざしています。印刷は福祉工場で行っており、購読料の一部は障害のある方々の工賃に繋がります。アリヤは、広告に頼らず、読者が支える本です。ひとりひとりの存在は小さいけれど、みんなで助け合い、支えあえばきっと誰もが幸せに生きていけるはず。地に足をつけ、蟻の目線でゆっくり歩いて行きたい。そんな思いをこめて『蟻の家=アリヤ』と名付けました。(アリヤWEBサイトより)

→ アリヤ ariya. 
http://www.arinoie.com
| 考えごと | 18:50 | comments(0) | trackbacks(0)
【求ム!情報!】行け行け!はあと・フレンズ・ストア!


9月19日記事、『【知って欲しいこと】「はあと・フレンズ・ストア」のこと』のシェアが1,400に達しようとしています。→

反響を期待してはいたものの…予想以上で…本当に…嬉しいです!
多くの皆さまがこの件に関心や心配を寄せてくださっていること、ああ間違ってなかったと心強く、心から感謝しています。




昨日(10/6付)の京都新聞にも大きな記事が掲載されました。
(ネットの方にもあがっているかもしれませんが)以下が記事全文となります!


障害のある人が作る品物を販売「はあと・フレンズ・ストア」(下京)
移転先探しています

京都市内の障害のある人の手作り製品を販売する「はあと・フレンズ・ストア」(京都市下京区)が移転先の店舗を探している。店が入る京都産業会館(同区四条通室町東入ル)の建て替え工事で店舗スペースが確保できなくなるためで、事業主体の市や商品を納めるNPO法人が無償で借りられる移転先を募っている。

産業会館建て替えで 15年度内閉店 「お客さん安心させたい」
同ストアは、障害者の工賃向上や産学連携による新たな商品開発を図るプロジェクトの一環で市が2011年10月に開いた。店舗スペースは同会館から無償提供されており、市から委託された府高齢・障害者雇用支援協会(南区)が運営する。店内には、市内約40の福祉事業所から仕入れたクッキーやアクセサリー、アート雑貨など常時200〜300種類の商品を扱う。
地下1階の立地にもかかわらずオープン以来、売り上げは好調で、昨年度の店舗売り上げは初年度の2.5倍にあたる1千万円に届いた。季節ごとのフェアの充実や店のスタッフが福祉事業所と協議して改良を重ねた厳選した品ぞろえで、近年は若い女性の支持を得ている。
京都産業会館は京都経済センター(仮称)への建て替えを控えており、同ストアは15年度内の閉店が決まっている。市は今春から、現在の立地に見合う市中心部で無償または低賃料で借りられる施設を探してきたが、条件に合った移転先は決まっていないという。
移転を知った客や福祉事業所の利用者からは心配の声が寄せられているといい、9月には商品を納める市内外の約30施設(注:正しくは54施設)が移転先の確保や新たな店を構えるための賃料の予算化を求める要望書を市に提出した。
店長の木下佳子さん(33)は「商品の評判は良く、製品を作る利用者の達成感につながっている。いち早く移転先が決まり、お客さんや利用者に安心してほしい」と話し、チラシやホームページで移転先の情報提供を募っている。運営主体の市は「移転先は必ず確保する」としている。
移転先の立地条件は市内の商業エリア(烏丸や四条通)で、約20〜40平方�の店舗面積を確保できる施設。使用料は無償または低額を希望している。問い合わせは市障害保健推進室☎075(222)4161。(冨田芳夫/2015年10月6日京都新聞より)



京都市障害保健推進室には少しずつ候補物件の情報が寄せられているようです。
この国で起こっている一大事や、世界中で起こっている悲劇に比べると、ほんまにちっちゃいちっちゃいことやなあと思いながらも、こうしたちっちゃいちっちゃい価値あるモノゴトを、大事に大事にしてゆくことこそが、社会をより良く、本当の意味で豊かにしてゆくものと信じています。
引き続き関心を持ってください!そしてどんな形でもよいのでご協力ください!
今一度、以下が移転先物件の希望条件となります。


【希望条件】
●所在地:京都市内の商業エリア(烏丸、四条、三条など)
●店舗面積:約40�
●賃借料:無償又はできるだけ安く
※情報提供いただける場合は、平成27年10月末日までにお願いします。
※なお、上記期日に関わらず、早めにご連絡いただければ幸いです。 

【連絡先】
●京都市保健福祉局 障害保健福祉推進室/就労支援担当 坂巻様宛
●TEL:075-222-4161/MAIL:sabba685@city.kyoto.jp


どうぞよろしくお願いいたします!!!!!

木ノ戸
| 考えごと | 17:14 | comments(0) | trackbacks(0)
CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>
ランキングに投票してください!!
人気ブログランキングへ
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
LINKS
PROFILE