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時には「杓子定規」なド直球

 

10日ほど前のことだったろうか、京一さんとQさんにド直球な説教をかました。

内容をざっくり言うと、「もっと“ちゃんと”休め」だ。

 

最近の京一さんはなんだかフーフー言いながら仕事をしている。相変わらず笑顔やダジャレは絶えないが、どこか少し辛そうだ。

「フーフー」が悪いことなのかどうかも分からないし、「少し辛そうに見えるだけ」なのかもしれない。

でも、確実に分かることがある。

それは彼が毎日朝から眠たそうにしていて、毎晩、丑三つ時までゲームやテレビにいそしんでいることだ(しかも起床は6時)。

「まともな生活」なんてものはあまり信じないが、それでも睡眠が大切なのは揺るぎない真実のひとつだろう(個人的に「睡眠の大切さ」に人生史上最も深く思い至って軽く衝撃を受けたのも最近のことだ。この件はまた別の機会に書きたいと思っている)。

ここに至るまで、昼寝用の(おでこの下に敷く感じの)枕もプレゼントしたし、スウィングに出勤した瞬間にはじめる「朝寝」も猛プッシュしてきた。

でも、元来京一さんはかなり生真面目な性格なので、こういう「日本式の正しい働き方」から逸脱した行為は苦手らしく、Qさんのように疲れたらスウィングのベッドでグーグー寝るなんてできない人なのである。

 

 

じゃあ、言うべきことは至ってシンプル。

 

もっと“ちゃんと”早く寝て休んでください。

1日中あくびをし続けなくてもいいように。

 

ちなみに京一さんの寝つきの良さは折り紙付きだから、いくら早寝をしたって心配はない。

 

 

Qさんは京一さんと違って、自由に朝寝も昼寝もするし、加えて体調に合わせて休みを取ることも習慣づいている。

だから僕も普段は「体調管理の天才!」なんてもてはやすこともしばしばだ。

が、彼は夏にめっぽう弱い。

「夏、最高!」みたいなのが書かれたTシャツをよく着ているけれど、客観的には「夏、天敵!」のほうが圧倒的に真実味がある。

彼には持病もあるし肥満だし体力はないし、そうじゃなくても真夏の暑さは普通にきつい。

しかしながら活動的で多趣味なQさんは、炎天下の休日に朝っぱらからヘトヘトになるまで出かけることをやめず、その挙句に疲れを引きずって泥のような顔をしてスウィングにやって来て、意味不明にブチ切れてデカい声を出したりするのである。

 

 

やかましい。

 

休むべきときに休まず、動き回って疲れまくっておいて、「もうヘルパー、辞める!」とか連発するとは何事じゃ。

しかも「焼き鳥の本数が少なすぎる」とかいう、あまりに身勝手な理由で。

 

もっと“ちゃんと”休日は休むために過ごしてください。

疲れがたまって怒り狂わずにすむように。

 

ちなみにQさんの寝つきの良さも折り紙付きであるが、眠りはかなり浅いらしい(だってすぐ、目、覚ますもん)。

 

 

スウィングは自由だ。

 

でもアレもコレもと自由の尊重ばかりしているうちに、節操がなくなり過ぎて混乱してしまうこともあるし、「実は肚に一物も二物もある」のを、「自由」の名のもとに無いことにしたり、伝えることをサボったりもしてしまう。

だからこそ、時には「杓子定規」なド直球を、“ちゃんと”堪忍袋の緒を切ってストレートに伝えることも必要なんじゃないか。

そして案外、そういうのって、心の奥深いところまでズドンと響く(ような気がする。)。

 

 

そして、そのときの主語はやっぱり自分自身だ。

 

「京一さんのためを思って」でもなく、「Qさんのためを思って」でもなく、「僕が」フーフー言いながら辛そうに仕事をするのを見たくないから、疲れて理不尽な怒りを爆発させられるのはたまったもんじゃないから、言う。

主語を自分に置くとは、自分の感情や感じたことを大切にするということ。

誰かのせいにしたり誰かのためなんて勘違いをしないように、自分軸を見失わないこと。

 

→ ★2019.5.31 親切が人の力を奪う。

 

 

さて、『まともがゆれる』の出版以降、(スケジュール管理の甘さゆえ)休みらしい休みが取れず、「なんにもしなくていい休みが欲しい……」などと愚痴る日々が続いていたが、ようやく先日、その「なんにもしなくていい休み」が取れた。

2人に偉そうに、説教たれた我が身である。

ハンパじゃなく死んだように休んでやろうと意気込んでいたのだが、この半年間、たくさんの人に会いすぎた反動からか、孤独感がものすごくってちょっとまいってしまった。

ま、ゴロゴロしながら映画を1日中(『孤狼の血』『カメラを止めるな!』『イントゥ・ザ・ワイルド』の3本です)観たんだけど、休むってなかなか難しい。

 

貴重な土日を「丸2日間、寝て過ごす」というミサ名人の域には、なかなか到達できそうもない。

 

木ノ戸

| 考えごと | 12:15 | comments(0) | trackbacks(0)
親切が人の力を奪う。

 

京都市バスに乗車中、少ししんどそうに見えたおばあさんに席を譲ろうとすると、「ありがとう。もうすぐ降りるから」と笑顔を向けられた。そっか、そっか。

しばらくすると、そのおばあさんは立ったまま降車ボタンを押そうとするのだが、もうちょっとのところで手が届かない。

「どうしようかな」と迷っているうち、彼女の腕はグン!と最後のひと伸びを見せ、無事にボタンを押すことができ、「とまります」の文字が赤く光った。


さて、僕の「どうしようかな」の正体は、「おばあさんに代わってボタンを押したほうがいいのかな」という、数秒間の逡巡である。そう、いつも迷うのが誰かに手を貸す、あるいは親切らしきものをかますタイミングだ。


たとえばこの場合、少し待つと彼女の手はグン!と伸び、ボタンを押すことができた。もしも僕が代わりにボタンを押してしまっていたならば、グン!の出番はなかっただろう。つまり彼女の腕が、その限界近くまで伸ばされることはなかっただろう。そしてグン!の出番がなくなればなくなるほど、彼女はどんどん、グン!ができにくくなったり、グン!の距離は短くなってゆくだろう。


海に泳ぎに行くことはあまりないし、ライフセーバーが見守っているような浜辺に行ったことは一度もない。ただの一度も。

だからこれは全くの想像(妄想)なのだけれど、たとえば浜辺に何度も何度も姿を現し、元気ハツラツ大活躍をしているように見えるライフセーバーは、実はあまり感心できない、三流セーバーなのではないだろうか。

対して一流のライフセーバーはなかなか動かない。何なら1日中ピクリとも動かない。が、めっちゃ見ている。本当に自分が動くべき事態にだけ動き、動かなくとも解決する事態には無闇に動かないために。

子どもが浜辺で転んだ。大声で泣き出した。三流が勢いこんで、飛び出していこうとする。一流は彼をスッと手で制す。しばらくすると子どもは自らの足で立ち上がり、砂を手で払って歩き出す。


「親切」や「支援」という「正しい行い」は、その人ができること、主体性、自立性、そうした大切なものを奪ってしまう可能性をいつだってビンビンに秘めている。なのにそれは「正しい行い」がゆえに、本当にそれをすべきだったのか? ただの自己満足ではなかったのか? あまり顧みられることがない。でも一方でこの社会に決定的に足りないもののひとつは「おせっかい」だなあ、なんて真剣に考えてもいるし、主体性や自立性を尊重するふりをして、その実、面倒くさいから何にもしようとしない人がたっくさんいるのも現実だと思う。

 

 

僕はさっさと降車ボタンを押して、「ありがとう」と言われてしまえばよかったのだろうか。

いや、待てよ。これがおばあさんじゃなくって降車ボタンを押さずにはいられないQさんやかなえさんであったならば、僕はキッ!と厳しい目つきで睨まれていたのではないか。

いやいや、あのおばあさんだってQさんやかなえさんの「一味」だって可能性もあるじゃないか。


たぶん答えは永久に出ないし、正解はひとつではないのだと思う。

だからやっぱり最後はここに落ち着く。

親切も支援もおせっかいも、自分の意思で、自分が決めて、自分がやりたいからやるのである。

ここがぶれてしまうと「押しつけがましさ」や「ええことしてる感」が漂ってしまい、場合によっては相手に申し訳なさすら感じさせてしまうことだってあるし、逆に自分軸さえぶらさなければ、失敗したって上手くいかなくたって「誰かのせい」になんかせずに、何度でも自分自身を出発点にできる。


人生の主語はいつだって自分自身なのである。

 

木ノ戸

| 考えごと | 12:18 | comments(0) | trackbacks(0)
ダメなままで生きる

 

今日は京都・宝が池公園を会場に開催された「あそば春」というナイスなイベントで、「井敦子と草の根プロジェクト。」代表の井敦子さんと、(どっかで聞いたことがあるような)「敦子の部屋」というトークコーナーで話をさせていただいた。飛び入りで丹下紘希さんもご参加。(どっかで聞いたことがあるようなテーマ曲を合図に)3人でゆるく、でもマジメな話をした。

 

井さんの懐の深さというか魅力はデカすぎて説明が難しいのだけれど、僕との明らかな共通項は「学校時代に色々うまいことできてしまったけれど、実は絶望的なくらいに合っていなかった」という点だ。僕は最近、このことを「騙された」と表現することが多いのだが、じゃあ誰に騙されたのか? と考えるとなかなか答えが難しい。誰もが信じて疑わなかった価値観なり評価軸なりがあって、できるだけそれらの「上のほう」で生きていくことがより良い……誰にもこれ以外に、ほとんど思考や選択の余地はなかったのだから。人と人とが殺し合うという、どう考えたってメチャクチャな戦争だって、大多数が正しいと信じこんでしまえば正当化されてしまう、そういうデンジャラスな世界の中を常に僕たちは生きている。一体どうすればいいのか困ってしまうけれど、僕は時々「ひょっとして今のこの状況は間違っているのかもしれない」と疑ってみることが大事だと思っている。


トークは大変ありがたいことに、(一応、僕がゲストという形だったので)『まともがゆれる』に書いたことを話題にしながら進められた。大雑把に言えば、セーフゾーンがあまりにも狭くなってしまったこの窮屈な社会をダメなままで生きてゆこう! というメッセージを大の大人3人が(あくまで雰囲気は和やかだったが)本気で投げかける、そんな30分間だったように思う。「ダメなままで生きる」ということと、「マジメに生きない」ということとはだいぶ違う。むしろ「ダメなままで生きる」というのは、「大きな勇気を持って、めっちゃマジメに生きる」という宣言に近いと思う。

 

前提として、人間というのはそれぞれにスーパー不完全な生き物である。いつの頃からか僕の中での完全形モデルはなぜか「阿部寛」なのだが、無論、阿部寛は世界にひとりしかいないし、誰もが阿部寛のように生きられるわけはない。というか完全形としての阿部寛も僕の幻想、いや、妄想に過ぎない。つまり僕たちは、大人のふりをしようが立派なふりをしようが威張って肩で風切り歩こうが、いつまでも完全にはなり得ない、揺るぎなくダメな存在なのである。

 

「ダメなままで生きる」ということは「丸裸の自分のままに生きる」ということ。

ひょっとしたらこれは、ものすごく怖い生き方なのかもしれない。飼い慣らされてしまった僕たちにとっては、分かりやすく、大多数が何となく共感できる価値観や生き方のロールモデルがあり、それに乗っかって生きることができれば、それにこしたことはないのかもしれない。でも、もう、違う。そんなものはもうとっくにぶっ壊れているのだし、否が応でも新しい(古くてもいい!)何かを模索し、更新しなければいけない。

 

 

丹下さんも『まとゆれ』を買って読んでくださっているというし、井さんは太宰治やヘルマン・ヘッセと同じくらい共感したと言ってくれるし(……リップサービスが過ぎる)、いやいや、まあ嬉しかったのだが、こうした『まとゆれ』に対する好意的な感想や反応に僕自身が陥っていた苦境については先日のブログに書いた通りだ(→『モヤモヤを舐めてはいけない。』)。

 

僕は今日もステージの上から、QさんやXLさんの姿を見つめていた。僕が賑やかな会場に辿り着くまでにアチコチ迷い、不安とともにひとり彷徨っていた頃、同じように別のところを彷徨っていたという大登くんの姿もあった。3人はステージの傍にはいたが、「誰ひとり聞いちゃいねえ」様子だった。

 

ダメさや弱さを認め受け入れたとき、それはもう、ダメさでも弱さでもない。

僕たちは『まともがゆれる』の続きを揺らし、既に新たな日々を生きている。

 

木ノ戸

| 考えごと | 00:06 | comments(0) | trackbacks(0)
研修報告書:アートの評価を考える(講師:椹木野衣氏)

 

障害のある人のアートの「橋渡し」を考えるためのセミナー

第3回:アートの評価を考える

 

・記入日:2019年2月27日

・記録者:木ノ戸昌幸

 

 実施日:2019年2月7日(木)18:00〜19:30 

 場所:京都場(きょうとば) 京都市中京区西ノ京南聖町6-5

 内容:アートを評価するということは、作品の魅力や意義を言葉にし、人に伝えるということであり、「なぜアートが人間や社会に必要なのか」ということを考えていく重要なプロセスです。アートのプロセスや社会的コンテクストを含め、幅広い視点から評価や批評を行ってきた評論家を招き、その価値を図るまなざしを学びます。

 講 師:椹木野衣氏(美術評論家・多摩美術大学美術学部教授)

 聞き手:岡部太郎氏(一般財団法人たんぽぽの家)

 

<参加の目的>

昨今、障害のある人によるアートも【売れる/売れない】【入選する/しない】等の評価軸に置かれる機会が増え、【評価が高い作品=良い作品】といった風潮が生まれつつあることに疑問、違和感、危機感を感じる。表現を、アートを、作品を、評価するとはどのようなことなのか? 椹木さんの考え方を学ぶ。

 

<研修で学んだこと>

●批評は文芸である!

椹木さんは「批評」をする人である。批評と評価は別物。評価はある尺度(評価軸)を持って優劣等を判断するものだが、批評に評価軸はない。なぜなら批評は人それぞれの内なる印象、主観的な自己表現だからだ。よって批評は誰にでもできる! 

 

●表現は、作品は、「関係性」の中で作られる! 

椹木さんは言った。

「もっと関係性を見るべきではないか? 作者も作品名もいらない。究極の理想はキャプションがなくなること」。

近年、障害のある人の「行為」を「作品」として提示する機会が増えており、魅力的なものも多い。が、「作者」とされるその人自身には作品としての自覚がなく、その魅力を発見し、作品として提示しているのは、その人の周辺にいる人(多くは支援スタッフ)の場合がほとんどであるように思う。だとしたらそれは、むしろスタッフの作品ではないのか? あれ? じゃあ「その人」はどうなってしまうのだ? そういう疑問がもやもやと、常に僕の中にあった。

この疑問にひとつの、明快な解を与えてくれたのが「関係性」という考え方だ。ある1つの表現、作品は様々な人との関係性の中で作られている。いや、ほとんど関係性の中でしか生まれ得ない。だとしたら全ての作品は共同作業によるものであり、「作者」は仮の、(「外部との回路」としての)一応の代表者みたいなものである。とりわけ障害者の表現活動には「全てその人の自発性によるもの。周りは何もしていません!」といった神話が伴うことも多いが、特に黒子に徹しがち……というより、なりたがる支援者はもっと堂々と、前に出てもいいのではないか。もちろん、どの程度その人の表現に関与するか?は常に逡巡すべきであるが。 

 

<意見・感想・今後について>

椹木さんは戦い続けている人だと感じた。参加して本当に良かった。

僕は「まともがゆれる」を書いたことが、「自分だけの手柄」のようになっているのに違和感があった(いや「自分だけの手柄」にしようとしていることに後ろめたさがあったと言うべきか)。とりわけ担当編集者さんとは、寝る間も惜しんで一緒になって頑張ったし、その存在失くして本の完成はあり得なかった。編集者の存在、マジヤバいと実感した。が、当の編集者さんはやはり控えめに、黒子に徹しようとする。また、この本にはスウィングの、様々な人の詩や絵が登場するし、僕が書いた本文の内容も、スウィングの実践、スウィングの人のこと、それらを通して考えたことがほとんどである。つまり「書く」という作業は確かに僕がしたけれど、この本はやっぱり、編集者との、そしてスウィング皆との関係性によって生み出されたものなのだ。椹木さんの話を聞いて「僕だけの本ではありません。編集者さんやスウィングみんなで作った本です!」と言っていいのだということが分かって、僕はとにかく、肩の荷が下りたようにほっとした。でも「みんなで作った本です」みたいなことを迂闊に言ってしまうと、どうにも嘘くさい、綺麗ごとな感じが漂ってしまうので、なかなか口にはしづらいのである。

| 考えごと | 20:36 | comments(0) | trackbacks(0)
すぐに言葉になんてできないもの

 

心揺さぶられるものに出会ったとき、すぐにジャッジをすることなんてできない。逆に言えばすごかっただのおもしろかっただの良かっただの悪かっただの即時的に言えてしまえるものは、結局のところそれは(自分的に)「消費」の対象であって、長く自分の中にとどまるものではないような気がする。

 

現在、京都造形芸術大学を舞台に開催中の「2018年度京都造形芸術大学 卒業展/大学院修了展」。今年もその広報デザインは坂田佐武郎氏によるものだ。そのビジュアルを最初に見たとき、僕はほとんど何も言うことができなかった。 たぶん猫で言えば、グルル……と短く喉を鳴らした程度の反応であったと思う。良い悪いではない。とにかくそれは僕の中に強烈に残り続け―もちろん今も残っている―、結果としてそのデザインを抗いがたい入口として、数年振りに卒展へと足を運んだ。都合により短時間しか滞在できなかったが、ずっとずっと、もっともっと、半年くらいやり続ければいいのに! と思った。最近、いろいろな物事のサイクルがものすごく短くなっているように感じるのは気のせいだろうか。

 

 

今夜、ロームシアター京都にて明日明後日と上演される『はじめまして こんにちは、今私は誰ですか?』のゲネプロダクションを観賞させていただいた。「この舞台、観に行きたい! でも次の日、3時起きで沖縄出張だからちょっと無理かも……」と駄々をこねていると、縁あって「観に来ませんか?」というお誘いを受けたのだ。僕には(僕にとって)つまらないものを目にすると、たとえ劇場の最前列であろうが、どんな著名人が目の前にいようが、「寝てしまう」という大変不届きなクセがある。一緒に行ったあちゃみちゃんは寝てしまったらしいが僕は一睡もすることができなかった(……何を言っているのだ?)。そして終演後、すぐに感想を口にすることもできなかったし、誰かに聞かれたらやだなとも思っていた。劇中、倉田翠さん(演出・出演)が「楽しいからではなくって踊らなければならないから踊っている」と、アドリブだかセリフだか分からない調子で語っていたのに痛く共感した。僕も己の行動を本気で喚起するものは「〜したい」ではなくって、もっと切実な、ほとんど不可避な「〜ねばならない」だと考えているからだ。

 

 

ちなみに今日の昼間、我々スウィングへっぽこ役者勢は、オール上賀茂ロケである撮影を行っていた。様々なシーンをアドリブ的に撮っていったが、恐らく踊らなければいけない理由は何ひとつないゴルゴは、上賀茂神社の真ん中でひとり楽しそうに踊っていた(いや、お願いして踊ってもらったのだ)。

 

先日、椹木野衣さんのお話を聴く機会があったのだが、「すぐに感想を言わないようにしている。ていうか言えない」というようなことをおっしゃっていて、強烈に勇気づけられた。僭越ながら「ですよね!」と思ったのだ。以前にも似たようなことを書いた気がするが、例えば僕の話を聴いてくれた学生に「人生観が変わりました」なんて即座に言われてしまうと、「そんなのたったの1時間で変えてんじゃねえ!」とか思ってしまう。とか言いながら椹木さんの言葉の数々は鋭く深く突き刺さり、人生観とまでは言わないものの、「何かの観」が変わってしまったような気がする。

 

心揺さぶられるもの、すぐに言葉になんてできないものが、必ずしも自分にとって快いものだとは限らない。快、不快という区別を越え、自分にとっての本物であったならば、それは否応なく自分の中にとどまり続け、新たな自分を形作る……いや、本来の自分へと還るための、血となり骨となるのだろう。

 

木ノ戸

| 考えごと | 01:43 | comments(0) | trackbacks(0)
【ariya. 26号】一般就労 vs. 福祉就労 〜後篇の次〜 

                                      海/たなかこまり/2015

 

予想外に長きに渡ったこのシリーズも今回でいよいよ最終回である。「後篇の次」てなんやねん…。だから、プロゴルファー猿とか紅蜂とか余計なことはもう書かない。だって、字数が決まってるんだもの!…と言いつつ、既に余計なことを書いているな。馬鹿は死ぬまで治らない。ああ、残念だ。ああ、かあちゃん、ごめんなさい。

本題に入る。後篇ではキョウイチさんの20年に渡る壮絶な「一般就労」の顛末と、その後のスウィングでの変貌について紹介した。ここからは凝り固まった就労観をまた別の意味で覆すような、2人の例を挙げてみたいと思う。

 

2年前からスウィングのメンバーとなったコニタン。いつもお洒落で人当たりも良く、一見「普通」 ―「普通」の定義はここではつっこまないで。「普通」は「普通」じゃ! ― の、なんの“生き辛さ”も抱えていないかのように見える男であるが、例えば人との距離感が上手く掴めなかったり、雷注意報が出てるだけで家に帰り辛くなったり、その他もろもろ、細かな“生き辛さ”が多層的に積み重なった、なかなかしんどい人生を歩んでいる。ちなみに飲めばゆるゆるリラックスできるので、雷注意報に備えてスウィングに酒を常備しておくよう、僕は彼にアドバイスをしている。ところでコニタンは、なぜスウィングにやって来たのか? 彼は元々神奈川県在住で、別の福祉施設で「福祉就労」をしていたのだが、「スウィングで働きたい!」という思いを胸に、わざわざ単身、京都に引っ越して来たのである。「あの企業で働きたいなあ」と、体ごと移動する例は山のようにあるに違いないが、「あの福祉施設で働きたいなあ」と、「福祉就労」の場から新たな「福祉就労」の場へと遠路はるばる引っ越しまでしてしまう。…これはなかなか珍しい例なのではないだろうか? コニタンの思いと行動力(と経済力)に感服すると共に、「福祉就労」の新たな可能性のひとつを見たように感じている。

 

もう1人、およそ1年前からスウィングで働きはじめた、たいと君を紹介しよう。たいと君はスウィングに来る前、「一般就労」の場であるフランス料理店で働いていた。けれど仕事に遣り甲斐はあっても、なかなか話し相手もできず、昼休みなどはいつも孤独に過ごしていたらしい。そうした状況の中、「一般就労」では得られないものがあるのではないか…と考えたお母さんがスウィングを訪ねてきてくれたことが、たいと君の「福祉就労」のはじまりとなった。たいと君は「オレたちひょうげん族」に所属しているが、(過去のトラウマのせいもあってか)色々と迷いも多く、はっきり言って表現活動はまるで順調に進んでいない。けれどたくさんの人と話したり笑い合ったり、のびのびとスウィングの日々を楽しんでいることに間違いはないし、そのことが即ち“「一般就労」では得られないもの”なのだと思う。…さて、実はここからがポイントである。たいと君はスウィングで働きはじめた。けれど一方でフランス料理店の仕事もずっと続けているのである。具体的にはスウィングで週に3日、フランス料理店で週に2日働くというスタイルだ。「福祉就労」の場でしか得られないものがあるのと同様に、「一般就労」の場でしか得られないものもまたある。それらをバランス良く掛け合わせることによって、たいと君の毎日は形作られているのだ。なんて素敵な生き方、働き方だろうか。僕はこのたいと君の働き方を「ハイブリッド就労」と(勝手に)名づけ、多くの障害のある人にとって、ひとつの理想的な「働き」の形なのではないかと考えている。

 

「一般就労」と「福祉就労」。ふたつの就労の在り方を二項対立的に語ること自体、もうおかしいのではないだろうか(僕のことじゃないか。えへ)。それはただ「合う」「合わない」の話であって、どちらが上下という話でも決してない。「一般就労」が合うという人は胸を張ってそうすればいいし、「福祉就労」の方が合うという人はやはり胸を張ってそうすればいい。スウィングでは人の「働き」を「人や社会に働きかけること」と定義づけ、お金だけに捉われない、多様な「働き」の形を創造・実践し、発信を続けてきた。もちろんお金も大切だし、そのことを決してないがしろにはしていない。けれどやっぱり、人が生きること、働くことの意味や目的は、お金だけではない。スウィング・メンバーのおよそ半数がかつて「一般就労」を経験し、「福祉就労」の場であるスウィングにやって来た。そしてその多くは(恐らくいい意味で)「一般就労」をきれいに捨て去り、「福祉就労」の場であるスウィングでの「働き」に遣り甲斐を感じ、楽しみ、社会や誰かの役に立っていることを実感している(はずだ)。「金は無くとも心は錦」なのである(はずだ)。

 

さあ、最後はやっぱりキョウイチさん。ある時「昔みたいに稼げる仕事に就けるとしたらどうですか?」と尋ねられると、「いやあ、もう無理やろ」と答える。「何が無理なんですか?」「そりゃあ、まあ、人間関係」。20年以上に渡って孤独であることを余儀なくされ、人間関係を持つことすら前提に無かった男が、笑顔でこう答えたのだ。僕らはキョウイチさんに心から言いたい。出会ってくれてありがとう、と。

 

木ノ戸昌幸(NPO法人スウィング 理事長)

※ この文章は「ariya. 26号」(2016年7月1日発行)より(随分時間経ってしまいましたが!)転載しました。

※ 前篇はコチラ → 後篇はコチラ →

ひらめきアリヤ ariya. とは? 〜始まりは、小さな一歩。〜
アリヤは、福祉施設で作られる製品や福祉の活動を中心に紹介します。製品の良さを知ってもらい、購入してもらうことで、障害者の雇用促進と自立支援をめざしています。印刷は福祉工場で行っており、購読料の一部は障害のある方々の工賃に繋がります。アリヤは、広告に頼らず、読者が支える本です。ひとりひとりの存在は小さいけれど、みんなで助け合い、支えあえばきっと誰もが幸せに生きていけるはず。地に足をつけ、蟻の目線でゆっくり歩いて行きたい。そんな思いをこめて『蟻の家=アリヤ』と名付けました。(アリヤWEBサイトより)

→ アリヤ ariya. http://www.arinoie.com  

| 考えごと | 20:06 | comments(0) | trackbacks(0)
(ひさびさ!)「障害者アート」考

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「障害者アート」や「アール・ブリュット」についてはスウィングなりに考え尽くしたし、もうとっくに距離を置いているつもりだけれども、それでもいろんな情報が入ってきたり、いろんな話が舞いこんできたりする。

※ 考え尽くした軌跡についてはだいたい以下のような感じになります。

 

ひらめきアブノーマライゼーション

http://garden.swing-npo.com/?eid=1400292

 

ひらめき展覧会「ART BRUT? NOT ART BRUT?」回想録

http://garden.swing-npo.com/?eid=1400291

 

ひらめきさよなら、アール・ブリュット

http://garden.swing-npo.com/?eid=1400317

 

ひらめき【寄稿】「別にすごくない」と言えること

http://garden.swing-npo.com/?eid=1400334

 

 

最近あらためて「障害者アート」について考える。

「障害者アート」という言葉に問題があるとするならば、それはそれほど難しいことではなく、本当にシンプルに、「この言葉によってイヤな思いをしている人がいる!」という、単純なことなんじゃないかなあと。

 

社会から与えられた自分の「属性」のようなもの、しかもあまり好ましい響きではない言葉が「アート」の「前」につくという、この状況。自分に置き換えて考えてみても、マジでイヤやなあと思う。

 

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このイヤな感じをもうちょっとだけ掘り下げてみようと、(最近は眉間に皺よせ、ワークショップの準備ばかりしている)沼田くんに投げかけてみたところ、「“「障害者」やのに”って感じがするからじゃないですかね」。

 

なるほど、確かに「障害者アート」という言葉からは、(それこそ言葉は悪いが)“「障害者」やのに”とか“「障害者」にも関わらず”という感じが漂っているように思う。少なくとも沼田くんと僕はそれを感じる。ではこの感覚を仮に「やのに感」と名づけて更に考えてみよう。

 

「糖尿病者アート」という言葉があるだろうか? 

多分ない。あったとしたらかなりの違和感がある。「やのに感」漂う。

 

「女性アート」はどうだろう? 

あるのだろうか? 知らない。あったとしたら色んな反発が色んなところで起こっていそうだ。「やのに感」かなり漂う。

 

「ブラックアート」。

これはもうあるジャンルだが、あまり違和感を感じない。恐らく黒人にしか確立できなかったアートが確実にあるし、なんかカッコいいとすら思ってしまう。「やのに感」もない。逆に強烈な誇りのようなものすら感じる。

 

「おかんアート」。

これも確立されつつあるジャンルだが、違和感が1周回ってイイ感じしかしない。作品を観る前から人の心をゆるませる力すらある(即ちこの言葉自体にアート性が宿っているとも言える)。「やのに感」はあるが、やはりイイ感じの「やのに感」である。

 

これらは全て僕の主観だし、ああだこうだ細かいことを議論するのはもうイヤ! というのが正直な気持ちだが、やっぱり「アート」は「アート」でいいんじゃね? と思うし、“ソレが「アート」かどうか?”というのは、むしろ観る人が決める、感じることが基本なんだと思う(「ピカソ? くっだらねー!」と言ってもいいのが「アート」というものだと思う)。

 

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こまりんは言う。

 

「「アート」として観る前に「障害者」の方を見られてるっていうか、「障害者」ってつくだけで、キラキラしてる感じがうれしい人が多いんじゃないですかねー」

 

そうね。「障害者」じゃなくって「その人」は「その人」でしかないのにね。

 

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便宜上、「障害者アート」という言葉を使わざるをえないこともあるし−先日も「障害者アートあるある」と題したトークイベントを思いっきり主催したばかり!−今の「障害者アート」ブーム(らしきもの)にスウィングが乗っかっている(?)ことも否定できない。

 

別にそんな深刻でもないのだが、こうしたある種の矛盾を抱えながらスウィングは日々を歩んでいる。

 

そして「障害者アート」ってなんかちょっとイヤな感じ! というこの感覚を、心のどこかに残しておくことはやっぱり大切なことなんじゃないかなあと思うし、更にその一方で「アート」という文化がなぜだかあまり根付いていない現代日本において、「障害者アート」がもっともっと認知されて当たり前になって、そのもっと先に「アート」そのものが当たり前になった時、「健常者」の「アート」もけっこうええやん? みたいなことが起こったらオモシロいなあと夢想したりしている。

 

 

…とはいえ、やっぱり最後はXL氏のあまりにも清々しい言葉でしめていただきましょう!

 

 

はい!! ホンマにその通り!!!

 

木ノ戸

| 考えごと | 14:33 | comments(0) | trackbacks(0)
「ありのまま」ということ

 

障害者は健常者と違って「ありのまま」に生きている? 

そうした姿を見て自分の生き方や不自由さを顧みる?

よく聞く、よく聞く。はいはい、偏見、偏見、ド偏見。

 

そういう人もいるかもしれないが、そうでない人もいる。

悩み多き人もいれば、割と気楽に生きている人もいる。

誰だって調子がいい時もあれば悪い時もある。

 

それがそれぞれ個別である“人間”の「ありのまま」の姿ではないのか?

そこに障害者うんぬん、何の関係があるのだろうか?

あなたが何かに深く悩んでいるなら、それがあなたの「ありのまま」ではないのか?

あなたが「常識」や「ルール」や「普通」や「規範意識」にがんじがらめになっているのだとしても、それがあなたの「ありのまま」ではないのか?

 

大切なのはいつだって、どんな状況だって、“自分の”「ありのまま」にOKを出し続けることだ。

ありのままでいい。今のままでいい。何にもいじくらなくったっていい。

 

楽しい時には楽しいままに。

嬉しい時には嬉しいままに。

哀しい時には哀しいままに。

しんどい時にはしんどいままに。

 

人は皆、生きてるだけで大仕事。

 

自分とは違う誰かを「他者化」し「対象化」し、さりげなく生み出される巧妙な「感動ポルノ」。

24時間テレビの方がまだずっとマシだぜ。

 

木ノ戸

| 考えごと | 15:44 | comments(0) | trackbacks(0)
【寄稿】「別にすごくない」と言えること



スウィングの芸術創作活動「オレたちひょうげん族」がスタートしたのは2008年のことである。

大した見通しも持たず、ただ「描きたい人がいたから」という実にシンプルな理由ではじめた試みではあったが、その背景に「障害者アート」ブームとも言われる流れが既にあったことは間違いない。

けれどその流れは、今のそれとは全く比べものにならない、まだまだひっそりとしたものだったように思う。

あれからおよそ7年。「美術」と「福祉」の交差点のような場(今回のトークイベントのことだ)が生まれ、そのような場に自分が参加させてもらえるなんて、およそ想像もできなかったことだが、2020年オリンピック・パラリンピックに向け、どんどんと活気づく「障害者アート」ブームの中であれこれと考え、思いを巡らせ続けていると、そもそも僕たちがしたいのは「美術」ではなく、「福祉」なのだという根本を、強く強く意識するようになった。

とりわけ僕たちは「障害福祉」を実践している身であるから、障害のある人たちが幸せに、心豊かに生きられる環境を作ることこそが目的であり、言い換えれば「美術」はそうした「福祉」を実現するためのひとつの手段なのである。

このような観点から昨今の「障害者アート」の隆盛を見た時、最も気がかりなのが「障害者」=「芸術性に秀でた人」という新たなド偏見が出現し、そして着実に定着しつつあることだ。

実際、「すごいぞ、これは!」展のフライヤーや図録にも「障害があるということは、アートに関して言うならば傑出した才能に恵まれているということなのです。」という「嘘」が堂々と書かれていたりするし、トークイベントの中では「すごいぞ、これは!」という展覧会タイトルそのものに異を唱えさせてもらった。

その意図も趣旨も理解はできるが、この言葉に鑑賞者が作品を観る目線を偏らせてしまったり、既述したド偏見を強化させてしまう力があると考えたからだ。



しかしながら、美術のプロ達が「すごいぞ、これは!」と強く推薦する作品群を実際に観てみると、「確かにすごいな」とか「これのどこがすごいねん…」という、正に批評的な眼差しを自然と持たされたこともまた事実である。

著名な芸術家は数多くいるが、人それぞれ好き嫌いがあるだろう。

しかしながら、障害のある人が生み出したものについてはどうも「NO」が言いづらい、そんな雰囲気が世の中にあるように思う。

そうではなく、「すごい!」と思うものには素直に感動し、心動かないものには「別にすごくない」と率直に感じること。

鑑賞者がそうしたある種の強さを身に付けてゆくことが、「美術」にとっても「福祉」にとっても、新たな出発点になるのではないだろうか。

NPO法人スウィング 理事長 
木ノ戸昌幸


※ この文章は…

「すごいぞ、これは」展(高知会場)スペシャル・トークイベント記録
それらを愛でること・批評すること
−美術のまなざしは「障害のある人のアートになにができるのか?」

…より転載しました。

| 考えごと | 17:52 | comments(0) | trackbacks(0)
【ariya. 25号】一般就労 vs. 福祉就労 〜後篇〜 


                                            津軽海峡冬景色/西谷文孝/2015

(前編のあらすじ)
粉雪のように降り積もる紅蜂への恋心を振り払うかのように荒れ狂う日本海へとやって来た猿。ひとり岸壁に立ち「ワイは猿や…プロゴルファー猿や…」そう呟くように言いながらドライバーを構えた時、ふとこう思う。「…高波にのまれる人がいる。確実に毎年ニュースで聞く。ということは危ない時に高波を見に行く人の実数はもっともっと多いはずだ。それは一体どれくらいなのだろう?」「十倍くらいじゃない?自殺者にしたって何にしたって、そういうのって十倍くらいを実数だっていうじゃないの。一体どんな根拠があるっていうのかしらね。」— 驚いて振り返る猿の目に映る愛しい人の姿!…果たして紅蜂は猿を追ってきたのだろうか?…そして2人の許されぬ恋はどこへ向かおうとしているのだろうか?…ていうか猿はどうでもいい疑問を知らぬ間に口に出してしまっていたのだろうか?— 後篇に続く。


…はい、すみません。嘘です。(本当の)前篇については、スウィングのブログ「Swingy days」に転載(ネット検索、「アリヤ 24号 就労」で多分出てきます)しておりますのでそちらの方をご覧になっていただければ!もしくは「ariya.24号」のご購入を!(前篇はコチラ!→

…本題に入る。理想的とされる「一般就労」としゃあなし的に捉えられがちな「福祉就労」。このほぼ固定化して揺るぎない就労観に対して—少なくとも今のこの社会状況(年間自殺者3万人?過労死認定1,000人?もうとっくに破綻しているではないか)にあっては—大いなる疑問を抱かざるを得ない。僕はこれまでの僕自身の人生を通して、いい大学に入って、いい会社に入って…といった、いわば王道の価値観を(心身ともに)“ただの一度も”腑に落とすことができなかった。そしてそうできないことに対し、酷く苦しんだ時期もあった。僕なりの苦悶苦闘の末、「毎日笑えるよ」という友人の言葉に導かれ、この障害福祉業界に足を踏み入れたのが25歳の頃。そこに儲かるとか儲からないとか、生活をしてゆけるとかゆけないとかの計算は(残念ながら)一切無く、「毎日笑えるのであればそれは最高だ!」というこの上なくシンプルな思いだけで人生の舵をひょい!と切ったというのが嘘偽りない事実である。つまりこうした僕自身の個人的背景が「一般就労」万歳!「福祉就労」残念!的な雰囲気に対し、問題意識を向けることの発端になっているには違いないのだが、近年、この問題意識を更に良い意味で混乱させるような、あるいは具体性を伴って深めさせてくれるような人々が、スウィングという場に続々とやって来たのである。

男ド演歌・山川豊似、四十を超えたばかりの(一見)シブい男、キョウイチさん。キョウイチさんは20年間の「一般就労」(木材店勤務)の果て、会社の都合によりクビとなり、およそ4年前にスウィングにやって来た。寡黙、実直、クソ真面目。誰とも必要以上の会話をせず、ただ黙々と仕事に打ち込む無表情な男の姿は、スウィングでの日々を一日一日積み重ねるうち、正に劇的に変わってゆくこととなる。会話が増え、笑顔が増え、冗談が増え、増え、増え、増え、遂にはくだらない冗談しか言わないような人へと物の見事に様変わりしたのだ。木材店勤務時代の20年間、キョウイチさんは殆ど誰とも口を聞かず(言葉を交わす相手がおらず)、無論冗談など“ただの一度も”口にせず、ひたすら同じ作業を繰り返す日々だったという。更に驚いたことに、当時それなりの収入を得ていたキョウイチさんは…にも関わらず“銀行への処し方”を一切知らなかったというのだ。毎月の給料は銀行口座へと振り込まれるが、お金を下ろす方法は分からない。でも自分の手には給与明細というものがある。よし、今月も頑張った。どうやらここに書かれている金額が銀行に振り込まれている「らしい」。…なんとキョウイチさんはこの「らしい」だけを頼りに、20年という長い歳月を、ただ黙々と、本当にただ黙々と働き続けたのである。(結果として残った相当額の預金が、現在のキョウイチさんの生活費となっている。)

僕はキョウイチさんのこの強烈な20年と、その後のスウィングでの変貌ぶりに多くの思いを寄せずにはいられない。(そこにはキョウイチさんの持つ障害とか家庭環境とか色々な要素が含まれているには違いないが、事の本質とは関係無いと思う。)今、キョウイチさんは笑顔で語る。「まさか友達ができるとは思ってなかった」と。スウィングという「福祉就労」の場にやって来て、キョウイチさんの収入は激減した。けれどキョウイチさんが得たものの大きさは「効率」や「お金」といった尺度では決して測り得ないものであり、そうした価値がこの世の中に確実にあるのだということをはっきりと教えてくれる。「お金」とは何なのだろう?働くとは何なのだろう?そして人が生きることとは何なのだろう?

…とかなんとか言ってるうちに後篇でも全然終わらず!だってキョウイチさん、オモロすぎるんやもん!というわけで次号、「後篇の次」に続く。

木ノ戸昌幸(NPO法人スウィング 理事長)


※ この文章は「ariya. 25号」より転載しました。

※ 後篇の次はコチラ → 前篇はコチラ →



ひらめきアリヤ ariya. とは? 〜始まりは、小さな一歩。〜
アリヤは、福祉施設で作られる製品や福祉の活動を中心に紹介します。製品の良さを知ってもらい、購入してもらうことで、障害者の雇用促進と自立支援をめざしています。印刷は福祉工場で行っており、購読料の一部は障害のある方々の工賃に繋がります。アリヤは、広告に頼らず、読者が支える本です。ひとりひとりの存在は小さいけれど、みんなで助け合い、支えあえばきっと誰もが幸せに生きていけるはず。地に足をつけ、蟻の目線でゆっくり歩いて行きたい。そんな思いをこめて『蟻の家=アリヤ』と名付けました。(アリヤWEBサイトより)

→ アリヤ ariya. 
http://www.arinoie.com  

| 考えごと | 16:17 | comments(0) | trackbacks(0)
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