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根深き呪い、ガンバリズム

 

コロナ禍にあって、こんなことが立て続いた。

 

まずはゆみさんが熱を出して仕事を休み「熱以外はなんともないので申し訳ないです」と、同じようなことを数日間言い続けた。

実際、熱以外は元気そうだったが、お医者さんのお墨付きが得られるまではお休みをしてもらった。

 

ゆみさんが復帰してしばらく経ったある日、深町さんがちょっとしんどそうにしていた。

気になって具合を聞くと、彼女は「偏頭痛だと思います。それ以外はどうもないので大丈夫です」と言った。

確かに頭痛以外には何もなさそうだったが、午後から早退することになった。

 

次は田中さん。ゆみさんと同じように熱を出して仕事を休み「熱以外はなんともないので申し訳ないです」と、同じようなことを同じように数日間言い続けた。

同じように熱以外は元気そうだったが、同じようにお医者さんのお墨付きが得られるまではお休みをしてもらった。

 

 

……が、ええ加減「これはちょっとおかしいんじゃないか!??」と気がついたのである。

 

 

発熱している時点で、頭が痛い時点で、その1点だけでもう十分な「休め」のサインなのに。そしてそのサインに従い、「堂々と回復するまで休む」のが本来のはずなのに。

 

でも3人は一様に「熱だけだから」「頭痛だけだから」と謎の除外規定を適用して自分を大丈夫な人にしたがり、おまけに休むことに対して申し訳なさまで感じていたのだ。そしてこの気持ち、僕にもよくよく分かってしまう……。

 

ああ、この「ガンバリズム」という名の根深すぎる病よ。。。

ガンバリズムなのか体育会系なのか同調圧力なのか軍国主義なのか知らないが、我々の奥深くにアホみたいに染みつけられた呪いよ。。。

 

スウィングという自由度の高い環境で、そしていい大人になっても発動するこの呪いは深いというか、相当に強い。

なんでこうなっちゃうんだろうか……と考えると、やっぱり「学校教育」に思いが至る。それも小学校の頃からの。

 

あの狂った場所に求められた様々な良い子像のひとつ、「休まずに元気に登校する子」。

これは「勉強ができる」とか「運動ができる」といった他の良い子像と違ってあまり能力を問わず、「無理して頑張ればいける」やつなので、とりわけ人気(?)や普及率(?)が高かったのかもしれない。

 

健康で元気なのはそりゃいいことだ。

でも僕たちは休むべきときにすら休みにくく、休んで尚申し訳ない気持ちになるように、来る日も来る日も、繰り返し繰り返し教育され続けたのだと思う。

これは一体なんのためだったんだろうか。ひと言で言うと「異常」じゃないか。

 

 

ちょっと前の話になる。

 

「あれ? 今日はQさん来てないな」とほんの少しだけ、魚でたとえるならば「ちりめん山椒」くらい心配していると、ほどなくQさんからの電話が鳴る。そして彼はうめくような冴えない声色でこう言うのだ。

 

 

 

「なんとなく休んでええか?」

 

 

 

まさに「ブレイクスルー」の瞬間だった。

 

具体的な理由ははっきりしないんだけど、でもなんか調子悪くって「なんとなく休みたい」ってこと、誰にでもあるあるある。でも休むためのそれらしい理由が必要で、理由があってもガンバリズムを発動しがちな僕たちにとって、この本当の声をそのまんまに発することは至難の技だ。本当の声なのにね。。。

 

一方、発熱や頭痛なんて真っ当でありきたりな理由はとっくの昔にクリアして、近年は「嫌な夢を見た」だの「足が腐った」だのワケの分からない理由をこしらえては休んでいた達人は、また次の段階へと歩を進めたらしい。

 

そしてQさんはその日、「なんとなく」仕事を休んだ。

 

ガンバリズムという呪いから綺麗さっぱり解放されるには、これくらいのダイナミズムが欲しいところだが、なかなか彼のようにはなれない(なりたくない?)のが、多くの人にとっての現実だろう。

 

スウィングではかつて生理休暇の取得率を上げるため、「性別を問わず生理的に無理な日に取ることができる休暇」と規定し直したことがあったが、「今日ちょっと無理なんで」と休んだ人はひとりもいなかった。

 

やっぱり皆、呪いのほうに引っ張られてしまったんだと思う。

 

しかしながらこのコロナ禍においては「不調を感じたら休むこと」がセオリーの1つになっているようだ。

現に3人は呪いの残り香をプンプンさせながらも「休む」という選択をし、そして実行に移した。

 

このセオリーは今後、いや未来永劫語り継ぎ、実践してゆくべきものだろう。

そしていつの日か、仕事や学校を休む理由ナンバーワンが「なんとなく」になったら愉快っちゅーか、イイ感じだろうなあ。。。

 

木ノ戸

 

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NPO法人スウィング

木ノ戸昌幸

| 考えごと | 21:05 | comments(0) | -
支え合う「できる」「できない」

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支援とかサポートとかケアとかなんかイヤ。

職員とか利用者とか社会包摂とか共生社会もなんかイヤ。

分断する感じがするから、どことなくフェアな感じがしないからイヤイヤ。

 

こうして終わらないイヤイヤ期を死ぬまで続ける所存であったが、このコロナ禍に際し、【利用者/職員】の暮らし方、そして働き方は大きく、パックリと二分化してしまった。

 

新型コロナウィルス感染拡大防止のため、4月中旬より利用者のほとんどが在宅ワークに移行した一方で、職員は「コロ休」(スウィングが設けた有給休暇制度)を代わる代わる取りつつ、基本的には通常どおりの出勤を続けている。利用者の中にはコロナ禍による変化・変更がどうにも受け入れ難い人、スウィングに来れなくなっちゃうことでかえって外出しまくっちゃう人らがいるからだ。もちろん組織を運営してゆく以上、止められない仕事も少なからずある。

 

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そんな中、職員が渋々来ているのかというとそうでもないようだ。職員にとっても(全員がそうとは言い切れないが)自宅で何日も何日も過ごし続けることは当たり前に辛く、スウィングへ出て来ることがかなりの「息抜き」になっている様子が見て取れる。

 

そうして息抜きをしつつ、在宅ワークをする利用者と連絡を取り合い、話をし、記録を書き留め、送迎の車を運転し、何より刻一刻と変わる未知の仕事をし続けている。

 

皆、ほとんど残業もしないし帰るのは早いが、1日が過ぎるのは本当にあっと言う間だ。

 

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しかしながら連絡を取り、励まし合い、個々の状況を把握するのは「職員」でなければならないのだろうか。 

 

必ずしもそうではないだろう。

しかし適切に聴き取り、適切に記録をし、適切に共有するというハードルをもうけている今、それを(多くは知的障害のある)利用者に委ねることは正直難しい。

 

人としての信頼とか優劣とかそういうのではないと思う。

 

けれど僕たちは、これまでの「できなくたっていいよね!」が通用しない、「現実的に、適切にできなければいけないよね……」という世界を瞬く間に作り上げてしまったか、あるいはそうした世界の中に有無を言わさず放り込まれてしまったのかもしれない…………本当にそうなのだろうか?

 

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じゃあ「適切」ってなんだ? どういうことだ? 

 

この状況下ゆえの標準ラインを定め、マニュアル化し、修正をし続けるのは主に「長」たる僕の役目だとしても、実際、職員個々の能力、【できる/できない】はまちまちだ。つまり「適切」の均一化なんていつまで経ってもできっこない。

 

イヤイヤ、かく言う僕の能力なんてものが高々しれていて、答えは簡単、できない人よりはできるし、できる人よりはできない。これは全人類適用可能、そして自分と誰かを比較し続ける限り永遠に終わらない蟻地獄みたいなものだろう。いきなりだが、かの手塚治虫でさえ「自分は絵が下手だ」という劣等感と終生戦い続けたと聞く。

 

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それに「この状況下ゆえの標準ラインを定め、マニュアル化し、修正をし続ける」のは、また「適切に聴き取り、適切に記録をし、適切に共有する」のは、なんてったって制度に則ってお金を得るためだ。もちろん在宅ワークを続ける皆が少しでも日々を健康的に安心して過ごせるように何らかの働きかけはし続けるにしても、お金がもらえなければ標準化もマニュアル化もたぶんしないし、記録なんて書かない気がする。じゃあ、僕たちが今求めている「できる」はお金のためなのだろうか? 

 

そうだと思う。

 

う〜ん、やっぱりそうか。

お金から逃れられない生活をしている以上卑屈になる必要もないと思うが、だからと言って威張るようなことでも全然ない。なんなら人としてちょっと恥ずかしい気さえしてきました。

 

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たとえばお金じゃなくって「お花」が最もモノ言う世界なら、お金基準の【できる/できない】は通用せず、新たに花基準の【できる/できない】が生まれるのだろうし、歴史を遡れば狩猟採集時代にも【できる/できない】はやはりあったはずだ。でも大活躍した腕利きのハンターがお金儲けや花の育成に長けていたとは限らない。

 

裏と表、陰と陽、弱さと強さ、月と太陽、ぐりとぐら。

 

同じように「できない」があるからこそ「できる」があり、「できる」があるからこそ「できない」もあるのだろう。

上辺だけ見ればどうしたって「できる」が目立ってしまいがちだが、その状況を少し冷静に俯瞰して見れば【できる/できない】は、いつも相互に支え合っていることに気づく。

 

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点数とか評価とか、現実として【できる/できない】によって「差」が生じることはもちろん知っている。

けれどその差によって人間の優劣まで決めてしまわないこと。たまたまその状況に即した「できる」が多いからといって、自分より「できない」人を下に見たり食い物にしたりしないこと。

 

これはきっと、こんな綺麗ごとはきっと、人間だからこそ「できる」ことに違いない。

 

その人間性を捨ててしまうならば、そこに広がるのはできる力が圧倒的にモノ言う(「北斗の拳」みたいな)弱肉強食の世界であり、多様性とは真逆の殺伐とした世界だろう。
 

木ノ戸

 

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木ノ戸昌幸

| 考えごと | 19:01 | comments(0) | -
渋滞つくってんの、自分やで

 

もう20年以上前になるが、「(京都の)鴨川の風景はまるでノーマライゼーションみたいだ」みたいなことを書いたことがある。

そこにはあらゆる垣根や差異を越えて「誰も」がいて、とても平和に幸せそうに過ごしている。なんて素晴らしいんだろう! と感じていたからだ。

 

物理的な意味だけではなく、「目には見えないもの」の存在や大切さを信じることができる今、それが間違いだったことに気づく。


まさに「太平洋ひとりぼっち」。

いや、古い。古いというか違う。


まさに「木を見て森を見ず」。


僕は僕の目に見える小さな小さな景色だけを見て「誰も」がなんて感動していたけれど、そこにはいつだって「いることができる人」しかいなかったのだ。

 

 

4月19日、日曜日の午後。食料品を買うために歩いて出かけると、鴨川が大勢の人で賑わっていた。

ひとりで。家族で。友達同士で。

運動をしたり楽器を演奏したり絵を描いたり、思い思いに過ごす人たちの姿はやはり幸せそうに映ったが、僕にはその景色をどう判断していいのか分からなかった。

 

外だ。とりわけ空気のいい川べりだ。皆、この未知の状況下で行き先を求め、「ここなら」とやって来たのだろう。

人は多いが「密閉」はもちろん、「密集」とも「密接」とも言い難い。

だから、確かにここならOKだろうという思いと、いやいや、あまりに危機感が足りないのでは? という思いが交錯した。

 

いつだったか高速道路でえげつない渋滞に巻き込まれ「バカみたいに行列つくりやがって」とうんざりしていたとき、ふと神様みたいな人(?)の声が、我が脳内に鳴り響いた。

 

 

「自分やで」

 

 

何が? ですか? 

 

 

「だから渋滞つくってんの、自分やで」

 

 

ハッとその意味を理解し、衝撃が走った。


そうか。そうだったのか。


前も後ろも右も左も微動だにしない車だらけ。とっても不快な景色だが、客観的に見れば僕も間違いなくその一部分なのだ。

えげつない渋滞を、バカみたいな行列をつくっているのが「自分自身も」だったなんて。

それからは渋滞に出くわしてもあまりイライラしなくなった。


 

さて、鴨川の風景に危機感を問うたその後、むくむくと蘇ったのはあの声だ。

つまり食料品の買い物という必要不可欠な目的こそあったものの、僕もその風景の一部だったのではないか。

 

是か非かは分からない(今、僕たちは分からないの中を生きている)。

 

けれど「理由」や「事情」を大義名分にして「自分(たち)は違う」と例外適用する、この厄介な癖。


ひょっとして、あなたも持っていやしないだろうか?

 

木ノ戸

 

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木ノ戸昌幸

| 考えごと | 19:36 | comments(0) | -
選挙も市長もいらない

 

京都市長選挙前日、とある人とほんの束の間語り合った。「あの広告より怖いのは、あの広告を出した人(たちに支援されている人)が選ばれることなんですよね」と。

 

結果を知って、夢かと思った。いや実際、夢に見たのかもしれない。

が、いずれにせよそれは悪夢だった。

 

大切な京都に 共産党の市長は「NO」

 

僕はあの広告を見て、我が目を疑った。そしてこんなことがまかり通るなんてウソだと思った。あまりの下劣さに、そこに在る100%の悪意に涙が止まらなかった。

 

クールぶった人たちは「お決まりの反共広告」だなんて、知ったふうな物言いをしていたようだ。そうか、お決まりだったのか。ならば僕が世間を知らなさすぎたのだろう。けれどあんたたちの言葉や言論に対する感受性も完全にイカれてしまっているようだ。頼むからもう黙ってくれ。

 

(きっと多くの人たちがそうであるように)いつの頃からか、この国はもう終わっていると感じてきた。でも、伝え聞く酷い状況はまだまだどこか他人事で、手応えや現実感に乏しかった……というより、認めたくなかったのだと思う。「目の前のこの社会」はまだ違う、と。

 

けれどあの広告は本当に、超えてはならない一線を超えていた。そして最も恐れていたのは、その広告主たちの勝利であった。勝つために手段を選ばず、ひとりの人間を公明正大に排除しようとした勢力が勝ち、万歳三唱を繰り広げている、そんな「目の前の社会」に僕たちは確かに生きていて、そんな社会を作っているのは僕たち一人ひとりだ。

 

終わっている社会が、自分事になった瞬間だった。

 

けれど意外なことに、僕にかすかな希望をもたらしてくれたのは、スウィングにも大勢いた「投票をしない人たち」だ。そのうちのひとり、あちゃみちゃんは「なぜ投票に行かなかったのか?」という問いに対し、即座にこう答えた。

 

「だって私の一票では変わらへんもん」

 

キレ気味に言うそれは、どこかで聞いたような台詞だ。「それは違う」と僕は瞬時に髪を逆立てた(今は間違いだったと思っている)。例えばあなたの髪の毛はどうだ? と。一本一本があるからあなたの黒黒とした頭(?)があるんじゃないか。選挙もそれと同じだ。一票一票の積み重ねで全体が、勝ち負けが決まるのだ。票を投じなかった6割の人たちが、もし今回の選挙に参加していたなら、黒黒とフサフサになったのは違う人だったかもしれないと。

 

……ん? ……6割? ……60%?

 

つまり投票率は40%。改めて見るとこの数字のインパクトは絶大だ。選挙はわずか40%の票のなかで争われ、結果が出たけれども、「投票をしなかった人」が過半数どころかおよそ60%にも及んでいたのだ。

 

前回選より5ポイント増ということだが、誰がどう見たって圧倒的大多数であり、これはもう、個々人の問題なんかではない。

 

あるいは「投票をしない人たち」は義務と責任を果たさなかった不届き者……ではなく「選挙なんていらない」「市長なんていらない」とメチャクチャ冷静に、無言のうちに語っているんじゃないか。

 

選挙も市長もいらない。

 

そうなのかもしれない。だって大枚はたいて、とんでもない人と労力と時間を費やして必死にアピールして、それでも6割の「いい大人たち」が投票しないのだ。もう何かが確実に死んでいるのは明白ではないか。僕自身もなぜ選挙が、市長が必要なのか、考えれば考えるほどまるで分からなくなってきた。

 

あちゃみちゃんがひとしきり(100万個くらいありそうな)選挙に行かない理由を語り終えた後、最後に言い放った言葉は真を突いていたように思う。

 

「どうせ分からないんやから、選挙権をなくしてほしい」

 

一票を投じた4割の人たちには、大なり小なりそれぞれの理由や根拠があるのだと思う。そして結果がどうであれ、「私は選挙に行った、政治に参加した」と少し胸を張ることができる。一方、選挙に行かなかった人たちは(僕がそうしたように)概して責められる。なんで投票しないの? 自分のことなのに、子どもたちの未来のことなのに、と。

 

でも現に、政治と不可分と言われる暮らしをつつましく送る彼女は、そして6割もの人たちは、投票に行かないという選択をしたのである。そして「分からない」は、政治家の言うことは難しくて分からない、そして同時に誰を選べはいいのか分からないという意味だ。

 

確かに。

 

簡単ならいいというわけでもないだろうが、彼らの喋り、主張、訴えは難しくって分かりにくい。しかも「選挙戦」というお祭り騒ぎの限られた短期間だけに現れて、やたらと愛想よく手を振りまくり、皆が皆分かりにくく、でもいいことっぽいことを言うだけ言って、「選挙戦」が終われば瞬く間に姿を消す。

 

つまりまったく暮らしと地続きではない。

 

だから真剣に考えれば考えるほど誰に投票したらいいのか分からなくなるし、気持ちが萎える。まったくもって正論である。そして、あちゃみちゃんが「私の一票では変わらへんもん」と言ったのは、「誰が市長に選ばれるのか?」という結果ではなく、この社会そのものを指しているんじゃないか。それは即ち、選挙は有権者の義務だの責任だのという正義を恥ずかしげもなくのたまう僕なんかより、よっぽど深い失望であり絶望である。

 

学校に行かない子どもを責めるのは、引きこもりだのニートだの社会に出ない大人を責めるのはもう違う。

 

同じように「投票しない人たち」を責めるのではなく、その圧倒的大多数の声に耳を澄まし、耳を傾けること。それこそが綺麗事ではなく、暮らしと政治を繋げるヒントであり、かすかな希望であるような気がする。60%は単なる塊ではなく、意思ある市民一人ひとりなのだ。

 

あんなあってはならないヘイト広告を出したメディアに、本気で社会を変えようとしている候補者に、本物のメディアとして、政治家として、自身の信条や政策を訴え続ける、その覚悟があるのだろうか。 

 

いや、もはや本物のメディアも政治家もクソもない。

問われているのは「政治そのもの」である自身の生き方、それだけなのかもしれない。

 

木ノ戸

| 考えごと | 14:58 | comments(0) | -
紙切れ一枚分の希望


昨日、初日を迎えた展覧会会場で、京都市長選挙の話になった。  

 

スウィングの利用者は現在29名。 その多くは常々、選挙に行っていないようだ。 

 

何らかの障害がある。 

 

そのことはたとえ選挙権があっても、「投票へ行くこと」をかなり遠いものにしている。印象や全体論で括ることの危険は承知しつつ、実感としてそう思う。

 

 

 政治は暮らしと繋がっているとか、投票は有権者の義務であるとか、そんなのは説得力皆無の、ただの綺麗事だ。

 

暮らしと繋がっていると、権利であり義務であると実感できないからこそ、「投票という行動」へ結びつかないのではないか。 

 

例えばあの、投票所の雰囲気。暮らしの延長の割にはあまりにも敷居が高く、物々しすぎる。あの場に漂う失敗が許されないような空気や雰囲気は、人を萎縮・緊張させ、投票から遠ざけるのに十分だ。 

 

 

また、投票したくてもできない人、政治と不可分に繋がる暮らしを生きつつ、選挙権のない人たちの存在を、「できること」や「あること」に慣れてしまった僕たちは知らなさすぎるのではないか。 

 

政治と暮らしが繋がっているなら、ひとりの市民として、このクソみたいな現実社会を誠実に生きることこそが最も尊い政治参加だ。

 

「できること」や「あること」は決して当たり前ではない。クソみたいな現実は誰が選ばれようと突然変わったりはしない。 

 

それでも一人ひとりの一票に、紙切れ一枚分の、一縷の希望が宿っていると信じたい。

 

木ノ戸

| 考えごと | 11:28 | comments(0) | -
広告:大切な京都に共産党の市長は「NO」/京都新聞社の見解

 

昨日の広告(大切な京都に共産党の市長は「NO」)について、京都新聞社に問い合わせた。いろいろ言うてはったけど、以下が京都新聞社の見解である。

 

●特定の個人を指すものではない。 

●特定の個人を誹謗中傷したり貶めるものではない。よって公職選挙法違反には当たらない。 

●上記は京都新聞社も広告主である「未来の京都をつくる会」も選管に確認している。 

●「政策を訴える広告」と判断した。「未来の〜」が政策と言っているわけではないが、京都新聞社がそう判断した。 

●政策とは「政治団体が訴えるものすべて」という理解。 

●「広告掲載基準」に則って掲載を決定した。 

 

概ね以上だ。

 

 

 

共産党推薦はひとりしかいない、市長候補は3人しかいない状況で、これが誰を特定しているかは猿でも分かる(猿に申し訳ない……)。  

 

まるで悪夢だ。

なぜそんなくだらない嘘を、新聞社が堂々とつけるのか。

 

「政策」という解釈も異常だ。

ここにあるのは醜い、あまりにも子どもじみた(子どもに申し訳ない……)「悪口」だけではないか。信じられない。

 

京都新聞社ではなく、あなたはどう思うのか? と担当者には何度も尋ねたが、ここで個人的な意見を言うことはできないと、苦しそうにかわされ続けた。

実際、その方の対応や語り口自体に葛藤や真摯さを感じたのは小さな救いだったのだが、じゃあ彼はどこでなら本当のことを言えるのだろう。

 

あまりのことに驚き、哀しみ、傷ついている。

冷静に、メディアとしてのプライドを持って顧みてほしいと伝え、話を終えた。

 

木ノ戸

 

【広告掲載基準】 

https://pr.kyoto-np.jp/ad/kijun/index.html 

 

以下、一部抜粋

 

(3)政党およびその他の政治団体の広告(公選法第201条)

私費による政党およびその他の政治団体等の新聞広告を使用した政治活動は、選挙運動にわたらない限り選挙期間中であっても行うことができます。

1.掲載不可のもの。 特定の候補者や政党等への投票の呼びかけ、反対する者への不投票の呼びかけなど、選挙運動とみなされるものはすべて掲載できません。

※選挙機運が一般化する投票日の3カ月位前からは広告中に候補者名、予定候補者名または氏名類推事項の掲載は慎重に取り扱います。

ア)候補者の氏名、シンボルマーク、政党、政治団体の名称で、候補者を推薦、支持し、投票の呼びかけの表現のものは掲載できません。

〔不可例〕「○○○○候補を支持します」、「○○党は○○○○候補を推薦します」、「歴史的な一票を○○党へ」、「○月○日 投票」、「投票日は○月○日」、「あなたの一票は○○党へ」等。

| 考えごと | 18:10 | comments(0) | -
しばらく京都には来ないでください

 

信じられない新聞広告を目にした。

岡山で充実した2日間を過ごし、心地よい疲労感に浸っていたその最中に。

 

涙が止まらない。

 

新幹線の中でも、バスの中でも、そして今も泣き続けている。

 

ここに書かれていることは一体何なのだろうか??

 

京都の未来を作るとか言ってる人たちが、こんなにも心ないやり方で、たとえ方法や思いに違いはあるとしても、本気で京都を良くしたいと奔走しているひとりの「京都市民」を露骨に攻撃し、排斥しようとしている。

 

情けない。逸脱している。

完全にアウトだ。許されない。

 

これを掲載した新聞というメディアにも絶望する。 

プライドはないのか??

 

子どもに見せてはいけない。

こんなものは、ただでさえ不安で不透明な未来の足枷にしかならない。

 

京都に来て、もう20年以上になる。

「京都」の壁は厚い。よそから来た「外様」であることを理屈でなく、肌感覚として未だに感じ続けているし、ずっと悩んでいる。いつもいつもというわけではないけれども。

 

しかしながら、「京都市民」であることを心から恥じたのは今日がはじめてだ。 正直、ここまでキテいるとは思っていなかった。

 

恐らく、高いお金を払ってこの広告を載せた人たちは、この広告が含有した暴力性や排他性、あるいは特定の個人、ひとりの人間を悪意100%で公然と攻撃し、傷つけていることに「気づいていない」のだ。

 

そこが一番怖い。

 

その感性で未来を作れると思っていることが恐ろしすぎる。

 

選挙はパワーゲームだ。けれど市長候補であろうが、手段であろうが、広告だろうが、勝ち負けが全てだろうが、人間性や「人を傷つけ、排他することの恐ろしさ」(=自分が傷つけられ、排他されることの恐ろしさ)への想像力を失ったならば、もう終わりだと思う。 彼らはもう疲れ切ってしまっていて、麻痺しているのだと信じたい。もう休んでほしい。そうじゃなければ、今夜僕が眠れない。

 

攻撃された側は、今が反撃のチャンス! だと息巻くのだろうか?

 

それも違うと思う。これはそんなんではない。そういう次元の話ではない。

 

ちゃんと傷ついてほしい。

哀しんでほしい。

 

未来は今と地続きだ。 今を大切にできない人に、決してより良い未来は築けない。

 

世界中からたくさんの人が訪れるKYOTOは、実はここまでダサい状況です。虚栄と慢心から解き放たれるまで、今しばらくお待ちください。

 

木ノ戸

| 考えごと | 02:18 | comments(0) | -
眠らなければ死ぬ

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遂に100万部を突破した(大嘘ですよ!!!)『まともがゆれる』を書いているとき、夢中になっているうちに次第に朝も昼も夜もなくなり、つまり生活がグチャグチャになってしまって、内心「こんな生活をしていたら絶対にアカン気がする……」とうっすら思いながら、それでもやめることができなかった。

責任感もあった。伝えたいこともあった。締め切りもあった。いろいろあった。

でも結局、「書くことが好きな自分」が最大の動力源だった。

 

1年ほど前だったか、ある好きなことばかりしている人が、「このまま好きなことばかりし続けたら死にますよ」と、どなたかに言われたそうだ。

この話を聞いた当時は「聞いたことねー」と笑ったものだが、今は「なるほど、めっちゃ分かるぞ」と思っている。

 

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たとえば子どもは楽しくってテンションが上がりまくっているとき、もはやその日の体力の限界を超えていても、日が暮れても、お寝むの時間が来ても、アホみたいに遊び続けようとする。

そしてその挙げ句、最後は「そこ、どこ???」みたいなところで、電池が切れたみたいにグースカ眠っていたりする。

つまり子どもの動力源はシンプルだから、然るべきタイミングで勝手に「落ちる」(=強制的に眠らせる)仕組みになっているのだろう。

 

でも、この強制グースカがなければ子どもは一体どうなるだろう? 

 

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対して大人の動力源は「大人は遅くまで起きててもだいじょうぶ! このプラモが完成するまでは眠らないって決めたんだもん!」とかいう根拠なき自信&決意によって、本人に止める気がなければ動き続けてしまう。

 

子どもが大人になるその瞬間を美しく切り取った長田弘の『あのときかもしれない』は、胸がキュンキュン鳴りっぱなしの名詩集だ。

僕は思う。

眠気の限界を超え、夜中の2時を過ぎてもプラモデルを作り続けたあの夜が、大人になった瞬間だったのかもしれない、と。

ちなみにこれはたとえで、僕はプラモデルというものをこれまで一度も作ったことがない。

 

でも、言うまでもなく子どもも大人も同んなじ人間だし、どんな大人だって子どもの延長を生き続けている。

そして賢ぶってるだけで、どちらと言えばバカなのはいつだって大人のほうなのであり、その日のエネルギーが切れ、然るべきタイミングで勝手に「落ちる」(=強制的に眠らせる)仕組みのほうがよほど高性能……というか、そもそもこの仕組みは子どもであろうが大人であろうが関係なく、生物として本来的に備わっている大切なものなんじゃないだろうか。

 

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では、なぜ眠るのか?


それは「眠らないと死ぬから」である。

 

ああ、「睡眠が大事」という、これまで100億回くらい聞かされてきたあのフレーズが遂に腑に落ちるときがやって来るとは。

そうか、いろんな人が一生懸命「大事、大事」言うてたのは死ぬからだったのか。

分かりにくいなあ、もう! 「死ぬよ?」って、はっきり言ってくれたら、もっと早く寝たのに!

 

本を執筆中に感じた「アカン気がする……」の正体。

それは即ち「死」であった。

いや、簡単なことだ。「食べなければ死ぬ」と皆が知っているように、「眠らなければ死ぬ」も、人が本来的に持っている真理のひとつ、分かりやすく言えば「死なずに生きる基本」みたいなもののはずだ(なんじゃ、そりゃ)。

師弟の問答風に書けばこうなる。

 

「師よ。ずっと眠らなければどうなりますか?」

「う〜んと、いろんな段階があるけど、最終的には死んじゃうよね!」

 

僕は二十歳頃から不眠に悩むことがままあって現在も眠剤ユーザーなのだが、不眠そのものより「眠れないかもしれないこと」を恐怖している自分を自覚している。

そして「今夜も眠れない。いろいろできるぜ、ラッキー!」とならないのは、「生活リズムが乱れる」とか「眠れなければ明日が辛い」とかよりもっと深い、「眠らなければ死ぬ」という根源的な恐怖感が根っこにあるような気がするのだ。

 

でも、そうか。やっぱり、そうなのか。

だから村上春樹やイチローやカズはめちゃくちゃ規則正しい生活を送っているのか(今は知らないし、すべて聞きかじりである)。

いや、こんな有名人たちの名前を出すまでもなく、僕の平和の物差し、ミサさんは「美味しいご飯を食べてお風呂に入って10時には寝ることが一番の幸せ」と悟った人かのように語り、見事なまでにその生活を守り続けているではないか。

 

 

先日、久しぶりに『崖の上のポニョ』を観た。

「そうすけ、好き〜!」を強烈な原動力にして、天変地異を引き起こしながら生き生きと駆け回るポニョは、突然、それまでの元気な様子が打って変わったように、ラーメンを食べながら深い眠りに落ちてしまう。

恐らくあのままのテンション、エネルギーで走り続けていたら、さすがのポニョもヤバかったのだろう。

まさか、巨匠・宮崎駿をもってして伝えたかったことがこれだったとは。

 

眠らなければ……。

 

木ノ戸

| 考えごと | 16:50 | comments(0) | trackbacks(0)
好きなことばかりしているからって。

 

スウィングでは好きなことばかりさせてもらっている。

好きなように文章を書いたり好きなように展覧会を企画したり好きなようにフリーペーパーを作ったり。

もちろんできれば避けたいことややりたくないこともたくさんあるけれど、基本的にはいつの間にか、好きなことばかりさせてもらっている。

 

なぜ、そんな状況が生まれているのか。 

 

どれだけ綺麗ごとを並べ立てても、「代表」とか「理事長」とか僕が権力者だからだろうか? 恐らくそれもあるだろう。

好きなようにやっていることが、誰かに面白いと思ってもらえているからだろうか? 恐らくそれもあるだろう。

 

 

でもその一番の要因は、スウィングでは、(どれだけ社会的にくだらなくても)好きなように自分を表現することが「是」とされていて……それがその人の「仕事」と揺るぎなく認められていて……むしろそれがスウィングの「普通」になっていて……いや、綺麗すぎる。そんなんじゃなく、これだ。

 

もはや、誰が、何をやっていても、それほど興味も関心も持たれないから。

 

なのだと思う。

実際、僕は最近、スウィングの誰かが表した表現なり作品なりにじっくりと触れることなんてほとんどないし、僕の仕事をあーだこーだ言われることもない。

そしてこれは僕だけではなく、スウィングで日々を生きる、多くの人に同じように起こっている現象のように見える。

 

つまり、それぞれが好きなように表現することが、「空気」みたいになっているのだ。

 

 

が、ここで勘違いをしていただきたくはない。

こんなことを書くと自由でいいなとか、さぞ楽しいだろうなとか思われるかもしれないが、かくしてその実態は「そうでもない」からだ。

 

時々、「スウィングの普通」からはかけ離れた、恐らく常識的な、ちゃんとしたところに行ったりすると、「発狂する自信」をはっきりと感じたりもする。スウィングの普通は世間の普通とは、やはりいい意味でズレているのだろう。

でも、僕たちが喜怒哀楽を持った人間として生きる毎日は、決して「喜」や「楽」ばかりではないし、どんなにいいように見える場所でだって、いろいろあるのが「揺るぎなき普通」なのではないだろうか(あ、「揺るぎなき普通」のことを「普遍性」っていうんじゃないのかな? どうなのかな?)。

 

 

たとえば好きなことばかりしているQさんは、よく意味のわからんことで怒っているし、そうは見られないことの多いXLさんだって、実はまあまあの頻度でイライラを隠せずにいる。

増田さんは今でも些細なことでよく凹んでいるし(もちろん彼にとっては些細なことではない)、沼田君の眉間の皺はますます深く刻まれているようだ。

おお、そう言えば向井さんなんてもうひと月以上、仕事を休み続けているではないか。

 

 

半月ほど前のことだ。

(スウィングではなかったけれど)僕は人目も憚らずに泣いた。

封じ込め続けてきた、気づかないフリをし続けてきた感情が遂に出口を見つけ、涙と共に溢れ出し、止まらなくなったのだ(無論、ひとりで泣いていたわけではなく、目の前には受け止めてくれる友人がいた)。

 

どんなに好きなことばかりをしていたって、日々を、ある場所を、喜びや楽しみだけで満たすなんて無理だ。

そんなのはちょっとおかしい。いや、あやしい。

絶対、不自然。ムリムリムリ。

 

むしろ喜びや楽しみは適当に放っておいてもいいのだと思う。

だって彼ら(?)は勝手に溢れ出し、知らぬ間に、好きなように拡散してゆく。


それはとても素敵なことだ。

 

 

でも、かわいそうに怒りや哀しみは、このポシティブ志向の世の中では疎んじられ、とりわけ「いい年をした」大人にとっては禁忌事項にされているきらいすらある。

今、この国の「五大疾病」のひとつは「精神疾患」なんだそうだ。

五大疾病ということは即ち、「誰でもなる可能性がめっちゃ高い」ということである。

極端な推論かもしれないが、喜びや楽しみしかないようなフリをしているうちに、蓋をされ、ないことにされ、行き場を失った怒りや哀しみが、遂に「病気」という形になって現れまくっている、そういうことなんじゃないだろうか。 

 

好きなことをしながら、時にQさんは怒り、XLさんはイラつき、増田さんは凹み、沼田君は眉間に皺寄せ、向井さんは休み、そして僕は泣く。

 

怒りや哀しみ、しんどさや弱さ。

そうしたネガティブとされる、でも当たり前の心たちを安心して見せることができる、そんな場づくりをスウィングは続けてきた。

もちろんそれは一筋縄ではいかない、今日も明日も来年も5年後も10年後も続く、終わりなき仕事である。

 

木ノ戸

| 考えごと | 19:27 | comments(0) | trackbacks(0)
時には「杓子定規」なド直球

 

10日ほど前のことだったろうか、京一さんとQさんにド直球な説教をかました。

内容をざっくり言うと、「もっと“ちゃんと”休め」だ。

 

最近の京一さんはなんだかフーフー言いながら仕事をしている。相変わらず笑顔やダジャレは絶えないが、どこか少し辛そうだ。

「フーフー」が悪いことなのかどうかも分からないし、「少し辛そうに見えるだけ」なのかもしれない。

でも、確実に分かることがある。

それは彼が毎日朝から眠たそうにしていて、毎晩、丑三つ時までゲームやテレビにいそしんでいることだ(しかも起床は6時)。

「まともな生活」なんてものはあまり信じないが、それでも睡眠が大切なのは揺るぎない真実のひとつだろう(個人的に「睡眠の大切さ」に人生史上最も深く思い至って軽く衝撃を受けたのも最近のことだ。この件はまた別の機会に書きたいと思っている)。

ここに至るまで、昼寝用の(おでこの下に敷く感じの)枕もプレゼントしたし、スウィングに出勤した瞬間にはじめる「朝寝」も猛プッシュしてきた。

でも、元来京一さんはかなり生真面目な性格なので、こういう「日本式の正しい働き方」から逸脱した行為は苦手らしく、Qさんのように疲れたらスウィングのベッドでグーグー寝るなんてできない人なのである。

 

 

じゃあ、言うべきことは至ってシンプル。

 

もっと“ちゃんと”早く寝て休んでください。

1日中あくびをし続けなくてもいいように。

 

ちなみに京一さんの寝つきの良さは折り紙付きだから、いくら早寝をしたって心配はない。

 

 

Qさんは京一さんと違って、自由に朝寝も昼寝もするし、加えて体調に合わせて休みを取ることも習慣づいている。

だから僕も普段は「体調管理の天才!」なんてもてはやすこともしばしばだ。

が、彼は夏にめっぽう弱い。

「夏、最高!」みたいなのが書かれたTシャツをよく着ているけれど、客観的には「夏、天敵!」のほうが圧倒的に真実味がある。

彼には持病もあるし肥満だし体力はないし、そうじゃなくても真夏の暑さは普通にきつい。

しかしながら活動的で多趣味なQさんは、炎天下の休日に朝っぱらからヘトヘトになるまで出かけることをやめず、その挙句に疲れを引きずって泥のような顔をしてスウィングにやって来て、意味不明にブチ切れてデカい声を出したりするのである。

 

 

やかましい。

 

休むべきときに休まず、動き回って疲れまくっておいて、「もうヘルパー、辞める!」とか連発するとは何事じゃ。

しかも「焼き鳥の本数が少なすぎる」とかいう、あまりに身勝手な理由で。

 

もっと“ちゃんと”休日は休むために過ごしてください。

疲れがたまって怒り狂わずにすむように。

 

ちなみにQさんの寝つきの良さも折り紙付きであるが、眠りはかなり浅いらしい(だってすぐ、目、覚ますもん)。

 

 

スウィングは自由だ。

 

でもアレもコレもと自由の尊重ばかりしているうちに、節操がなくなり過ぎて混乱してしまうこともあるし、「実は肚に一物も二物もある」のを、「自由」の名のもとに無いことにしたり、伝えることをサボったりもしてしまう。

だからこそ、時には「杓子定規」なド直球を、“ちゃんと”堪忍袋の緒を切ってストレートに伝えることも必要なんじゃないか。

そして案外、そういうのって、心の奥深いところまでズドンと響く(ような気がする。)。

 

 

そして、そのときの主語はやっぱり自分自身だ。

 

「京一さんのためを思って」でもなく、「Qさんのためを思って」でもなく、「僕が」フーフー言いながら辛そうに仕事をするのを見たくないから、疲れて理不尽な怒りを爆発させられるのはたまったもんじゃないから、言う。

主語を自分に置くとは、自分の感情や感じたことを大切にするということ。

誰かのせいにしたり誰かのためなんて勘違いをしないように、自分軸を見失わないこと。

 

→ ★2019.5.31 親切が人の力を奪う。

 

 

さて、『まともがゆれる』の出版以降、(スケジュール管理の甘さゆえ)休みらしい休みが取れず、「なんにもしなくていい休みが欲しい……」などと愚痴る日々が続いていたが、ようやく先日、その「なんにもしなくていい休み」が取れた。

2人に偉そうに、説教たれた我が身である。

ハンパじゃなく死んだように休んでやろうと意気込んでいたのだが、この半年間、たくさんの人に会いすぎた反動からか、孤独感がものすごくってちょっとまいってしまった。

ま、ゴロゴロしながら映画を1日中(『孤狼の血』『カメラを止めるな!』『イントゥ・ザ・ワイルド』の3本です)観たんだけど、休むってなかなか難しい。

 

貴重な土日を「丸2日間、寝て過ごす」というミサ名人の域には、なかなか到達できそうもない。

 

木ノ戸

| 考えごと | 12:15 | comments(0) | trackbacks(0)
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