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恥ずべき生などひとつもない

 

◆ 秋の夜長の殴り書き

ときどき思いついたように、詩のような、散文のようなものをノートに書く。たとえば2019年9月19日に書いたのはこんな感じだ。

 

「カミングアウト」という言葉を聞くたび クソッタレな世の中だな と思う 

ただひとりの人が そのただひとつの生を ただ生きているだけなのに

そんな よく意味の分からない勇気を奮い起こして 

自分のことを 打ち明けなくちゃならないなんて まったくひどい話だ

自分こそが「マジョリティ」で「ノーマル」だと思い込んでる 卑怯者たちが 

でも卑怯だから群れをなして「マジョリティ」や「ノーマル」を 

一生懸命にこしらえて守って 守ってはこしらえて

カリソメの安心を得るために そんなひどい話を 生み出し続けているんじゃないか

賢者曰く 「人生は死ぬまでの暇つぶし」らしいぜ

でも そんなくだらない暇つぶしをするくらいなら 

早くさ 「わたしは卑怯者です」ってさ カミングアウトしろよ

 

いやあ、なかなか強い調子で、怒りに満ち溢れている。何かきっかけになる出来事があったのだろうが、それが何だったのかはもはやまったく覚えていないし、夜中に気持ちが昂って殴り書いたものだから、つまり誰かに見せるために書いたものではないから、こうして公にするのも少々勇気がいった(正直に言うと少しだけ手を加えて直した)。でも、この詩(?)の内容が「カミングアウト」に対する僕の基本的な思いであることに違いはない。

 

◆ ひとつ目の告白

ここに告白する。数日前からなんの前触れもなく突然左肩が痛くなり、最初は「ちょっと寝違えたかな?」くらいだったのが、だんだんひどくなって、現在の左腕の可動域はようやく肘を直角に曲げられる程度、(たとえば服を着脱するとか、顔を洗うとかなんでも……)それを超える動作をすると問答無用の激痛に襲われる。夜は「夜間痛」が生じて眠れないし、遂には心臓の鼓動ひとつにすら痛みを感じるという―その名も「拍動痛」―「痛み」を中心とした今を生きている。これはどうやら噂に聞いた「四十肩」らしく、知ってはいたけど、まさかここまでのことになるとは思ってもいなかった。

 

すべて事実であるが、どうだろうか。「大変そうだな」と、少しの同情を寄せてくれた人はいるかもしれないが、この告白に「僕という存在そのもの」に迫るような重みを感じた人は、まあ、いないんじゃないだろうか。僕自身、日常生活に多大なる支障をきたしているこの状況はかなり切実なものではあるけれども、じゃあ、ここにこんなふうに書くことに心理的な負担があったかというと、まったくそんなことはない。でも、なぜだろう。こんなにも辛いのに、それを告白することに何らの重みを感じないなんて。

 

◆ ふたつ目の告白

2006年、僕は主宰するNPO法人「スウィング」を立ち上げたおよそ半年後、積もり積もったプレッシャーやストレスからか突然の「発作」に見舞われ、激しい混乱に陥った。ドクドクと心臓の鼓動が早くなり、手足からとめどもなく汗が吹き出し、何よりいちばん怖かったのは高速道路を運転中だったにも関わらず、絶えず「気が失いそうな感覚」に襲われ続けたことだ。事故る恐怖に怯えながら何とか高速道路を降り、コンビニエンスストアの駐車場に車を停め、大きく息をついて倒れ込んだあの瞬間は、まるで昨日のことのように感じられる。

 

その後も発作は続いた(いや、「発作」という言葉を知ったのは、しばらく後のことだ)。むしろ状態はどんどん悪くなり、車の運転中のみならず、ひどいときには最もリラックスしているはずの、家のリビングでもそれは起こった。

 

一体自分の身に何が起こっているのか?

 

発作そのものよりもきつかったのは「自分の置かれている状態が分からない」という恐怖だ。精神科などでは診断名をもらうと安心する人も多いと聞くが、その気持ちが僕にはよく分かる。最初は脳の病気を疑ったが、「病院へ行く」という選択肢は怖くて選べず、ひたすら自分自身で調べまくった結果、遂に「パニック障害」という言葉に行き着いた……そのときの安堵感といったら! そうか、僕はパニック障害という病気になってしまっていたのか。つまり脳の深刻な病気とかではなかったのか。発作は相変わらずだったので、すぐに精神科を受診し服薬治療を開始(最初は副作用が強く辛かった)、それと同時に近しい人たちや発作が起こりやすい場所(たとえば美容室)にいる人にも自身の状況を予め伝えておくようにした。すると、少し楽になった。

 

最も怖い、車の運転時には「発作、来い来〜い♪」といった、いい加減な歌を大声で歌いまくることにした。怖がるのではなく、積極的に発作を呼び込むモードに切り替えることにしたのだ。すると、さらにまた少し楽になった。パニック発作は電車など社会的な空間で起こってしまう人も多いと聞くが、僕にそれはなかった。さすがに電車内でこんな歌を歌う根性はなかったから、不幸中の幸いだったのだと思う。

 

そして、およそ5年後には発作はまったく起こらなくなり、強い薬は徐々に終了。でも未だに「発作が起こるかもしれない」というザワザワとした不安はなくならないので、ザワザワ用に変わらず頓服は持ち歩き服薬し続けている。それが今の僕だ。

 

このふたつ目の告白は、こうした状況に現在進行形で苦しみ、またそれを周囲になかなか言えない、理解されないという苦しみの渦中にいる人にとっては少しの救いになったかもしれない。いや、厚かましくも救いになって欲しいと願う。僕の心中も少しばかり複雑だ。人に話すことにも、こうして書くことにもほとんど抵抗感はないのだが、胸の奥の奥の、チクリとくる痛みに嘘はつけない。理屈ではなく心のどこかに、何か「いけないこと」を言っているかのような感覚が、まだほんの少し残っているのだと思う。

 

◆ なぜ、「言いにくい」のか?

「四十肩」は誰もがなるかもしれない、めっちゃ痛いけれどもネーミングもちょっと可愛らしい、身体の病気、症状だ。つまり冒頭の詩に書いた「マジョリティ」で「ノーマル」な人たちも等しくなり得るもの、また現にそうなったとしても「マジョリティ」「ノーマル」というポジションが揺るがされることはない。言い換えれば四十肩そのものがマジョリティでノーマルなものだからこそ簡単に言えてしまうのだろうし、したがって言葉としての重みもないし、それを発する心理的な負担もほとんど生じ得ない。

 

でも精神的な病気や苦しみって、なぜ、なかなか人や社会に対して言いにくいのだろうか? 

 

精神疾患がこの国の「五大疾病」になって、もう随分になる(はずだ)。つまり四十肩同様、精神疾患はいつ誰が罹患してもおかしくないもの、その良し悪しは別として、つまりとってもポピュラーな病気なんである。……にも関わらず、世の雰囲気は相変わらず精神疾患に対して差別的だし他人事だし、「マイノリティ」あるいは「アブノーマル」の烙印を押し続けているように見える。

 

もちろん精神疾患だけではなく少数派としての出自、障害、セクシャリティを持つ人たちなどを取り巻く状況も基本的には同様だと思う。「マジョリティ」というくだらない傘に守られた、「ノーマル」ぶった分からず屋たちの有形無形の圧力によって緊張を強いられ、「ただ自分を生きてきた」という単純な、でもかけがえのない、誰も否定なんてできない事実を「言いにくい」ことにされ、「カミングアウト」なんて言葉を迫られている。「言いにくい」って本当に本当に辛いことだ。少数派として人の世を生きることは、それだけで痛みが伴う。そしてその痛みを言えないことは、輪をかけてその人を苦しめる二次的な痛みとなる。誰かを裏切ったわけでもない。誰かを傷つけたわけでもない。繰り返すが「ただ自分を生きてきた」だけなのだ。それが堂々と言えないなんて、いや、言わせないなんて、どう考えたってひどすぎるんじゃないか。

 

◆ 憑き物が落ちた瞬間

「カミングアウト」がマジョリティによって強いられる行為であることを自覚し、また非難しつつも、同時にそれによって人が(程度の差こそあれ)救われることも知っている。それは有名無名を問わず、勇気ある人たちから今も学び続けていることでもあるし、自分自身の経験則でもある。

 

僕は四十肩のこともパニック障害のことも、多少のストレスは感じつつも現在進行形で友人知人、そして世間に向かって打ち明けることができた。けれど、どうにも、誰にも打ち明けることができなかった、まさに死線をさまよった十代という過去を持つ。小学校からはじまる学校時代、勉強やスポーツやリーダーシップを持つことなど、社会や教師から要請されるほとんどのことが「たまたま上手くできてしまった」僕は、やがてそれらを失うことを恐れるようになる。10歳の頃のことだ。つまり褒められたり評価される自分でいられなくなったら何の価値もない、誰にも相手にされない人間になってしまうんじゃないかと、ほとんど無意識のうちに思い込むようになってしまったのだ。そうしてはじまった「失うことへの恐怖」に支配された日々は地獄だった。

 

地獄の底は15歳。遂に心が限界を迎えたある夜、発作的に舌を噛み切ろうとする。でも、生きようとする力が勝ったのか試みは失敗に終わり、僕は生き延びた。この苦しみを誰かに打ち明けたい、分かって欲しいとおよそ10年間、毎日毎日思い続けたが、遂にそれはできなかった。言えば楽になるかもしれない、でも、もし受け入れなかったときには今以上に取り返しのつかないことになるんじゃないか……そんな強い恐怖と不安が常に心の内にあったのだと思う。

 

大学生になり二十歳を過ぎた頃、たまたま新聞で見かけた「大学生の不登校を考えるシンポジウム」という文字に強く惹かれた僕は、ひとりその会場へと足を向ける。そこで話をしていたのは不登校や引きこもりの若者を支援するNPO法人、「ニュースタート事務局」の二神能基氏。彼は100名ほどの参加者に向けてこう語っていた。「自立なんかしなくてもいい、目的なんか持たなくてもいい、人は迷惑をかけ合いながら生きてゆくものです」。……まさに、憑き物が落ちた瞬間だった。ああ、そうだったのか。僕の「失うことへの恐怖」は、「ちゃんと自立すること」「ちゃんと目標を持つこと」「ちゃんとして人には迷惑をかけない」、そんな「ちゃんとしなければいけない」シリーズができなくなることへの恐怖とイコールだったのか。でも、そんなシリーズなんかできなくっても生きてゆけるんだって! これまでの人生がはじめて全力で肯定されたようで、いても立ってもいられず、僕は家族や友人たちに10年間の苦しみをぶちまけた。そして考えられないくらいに、まるで翼が生えたかのように心が軽くなった。

 

◆ 「カミングアウト」の自由

最近、ふと思った。時間の流れは決して一直線に一方向にだけ流れているんじゃないのだ、と。一応、今僕たちは「時は金なり」とか「時間だけは平等」なんて言われる、物理的に等しく流れる時間を1秒1秒生きている。でも時間というのは、実際はもっと前後左右にグニャグニャグニャグニャしていて、もう数えることなんて不可能なくらいに枝分かれを繰り返しながら流れゆくものなんじゃないだろうか。

 

たとえば激しい心の葛藤に舌を噛み切らんとした15歳のあの夜、僕は幸運にも生き延びて、あのときを乗り越えた今を生きている……ことになっている。それは嘘ではないし、一番はっきりと目に見える時間の流れだ。けれど、同時にずっと生き続けているのだ。あのとき、苦しみの底にいた自分はそのまま、今も僕の中で。

 

「カミングアウトなんていらない」とか「いや、するべきだ」とか。人が傍からどうこう言うことではない。だっていずれにしたって僕たちは懸命に「ただ自分を生きてきた」のだし、それはこれからも死ぬまで続いてゆく。

 

苦しみを抱えたままの自分。苦しみを乗り越え前へと進んでいる自分。乗り越えたはずが後戻りしている自分。そのどれかが唯一の自分だなんて決める必要はなく、良いも悪いも酸いも甘いも過去も未来も全部ひっくるめて自分、それでいいのだ。

 

恥ずべき生などひとつもない。

 

※ このテキストは『統合失調のひろば 2020年春号』(日本評論社/2020)より転載しました。

 

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・コロナ禍の影響で実施をしない可能性もあります。予めご了承ください。

 

2019.03.04 Monday

見学日を月2回(毎月第3水・第4金)とさせていただきます。

http://garden.swing-npo.com/?eid=1400635

| 考えごと | 16:22 | comments(0) | -
障害者×芸術表現=めちゃいい感じ! ではなくって。

 

たとえば政治、文化、福祉、経済、教育……。日々の、人それぞれの、小さなひとつひとつの暮らしと密接に関わっているはずなのに、「どうもなかなか自分事にならないなあ」シリーズがあるが、そのひとつが芸術表現ではないだろうか。

 

これらの言葉に共通するのは、どこか特権的で高尚な感じ、つまりとっつきにくい感じが漂っていること。一体いつからそんなふうになってしまったのかはわからないけれど、僕たちは本来、当たり前に自分事としてあるべきこれらのものを、何とかして自らの手に取り戻さなくてはならない。

 

昨今、「障害者」と芸術表現の親和性の高さが注目されている。

とりわけ、この国のアールブリュットやアウトサイダーアートを代表する作家は、「障害者」と名付けられた人がほとんどのようだ。

僕が主宰するNPO、スウィングにおいても、毎日およそ20名の障害者たちが、絵を描いたり詩を書いたりコラージュをしたり、どうでもいいような、どうでもよくないような、バリエーション豊かな表現を生み出し続けている。そんな景色を眺めていると、「うむ、やっぱり障害者と芸術表現は相性がいいようだ」、なんてついつい思ってしまいそうになる。

 

でも、違うと思う。

 

その親和性の高さが力強く物語っているのは、「障害者」なんてちっちゃい括りを飛び越えた、「人間」と芸術表現の親和性……いや、もっと普遍的で本質的な、切っても切れない結びつきなのではないだろうか。 つまり、障害者×芸術表現=めちゃいい感じ! ではなくって、(もちろん僕もあなたも含んだ)人間×芸術表現=めちゃいい感じ! なのだと思う。

 

そもそも「障害者」とは誰のことであろうか。「障害者/健常者」などとべったりラベリングし、ばっさり分断することなんてできるわけがない。「人は皆、障害者だ」なんてわかったようなことを言う気はないけれど、でも、どんなラベルを貼られようと、僕たちは皆、それぞれに異なった、それぞれに不完全な存在なのである。

それはもう悲しいくらいに、揺るぎなく。

 

あなたが他の誰かの表現を愛するならば、それと同時に自分自身の表現を愛するべきだ。

何も難しく考える必要はない。

だって、いつまでも、どこまでいっても、人生の主語は自分自身なのだし、「表現すること」とは即ち、あなたがあなた自身の生を生きるということなのだから。

 

※ このテキストは「現代 アウトサイダーアート リアルー現代美術の先にあるものー」展(共催: GYRE/一般社団法人Arts and Creative Mind)カタログより転載しました。

 

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| 考えごと | 16:03 | comments(0) | -
根深き呪い、ガンバリズム

 

コロナ禍にあって、こんなことが立て続いた。

 

まずはゆみさんが熱を出して仕事を休み「熱以外はなんともないので申し訳ないです」と、同じようなことを数日間言い続けた。

実際、熱以外は元気そうだったが、お医者さんのお墨付きが得られるまではお休みをしてもらった。

 

ゆみさんが復帰してしばらく経ったある日、深町さんがちょっとしんどそうにしていた。

気になって具合を聞くと、彼女は「偏頭痛だと思います。それ以外はどうもないので大丈夫です」と言った。

確かに頭痛以外には何もなさそうだったが、午後から早退することになった。

 

次は田中さん。ゆみさんと同じように熱を出して仕事を休み「熱以外はなんともないので申し訳ないです」と、同じようなことを同じように数日間言い続けた。

同じように熱以外は元気そうだったが、同じようにお医者さんのお墨付きが得られるまではお休みをしてもらった。

 

 

……が、ええ加減「これはちょっとおかしいんじゃないか!??」と気がついたのである。

 

 

発熱している時点で、頭が痛い時点で、その1点だけでもう十分な「休め」のサインなのに。そしてそのサインに従い、「堂々と回復するまで休む」のが本来のはずなのに。

 

でも3人は一様に「熱だけだから」「頭痛だけだから」と謎の除外規定を適用して自分を大丈夫な人にしたがり、おまけに休むことに対して申し訳なさまで感じていたのだ。そしてこの気持ち、僕にもよくよく分かってしまう。

 

ああ、この「ガンバリズム」という名の根深すぎる病よ。。。

ガンバリズムなのか体育会系なのか同調圧力なのか軍国主義なのか知らないが、我々の奥深くにアホみたいに染みつけられた呪いよ。。。

 

スウィングという自由度の高い環境で、そしていい大人になっても発動するこの呪いは深いというか、相当に強い。

なんでこうなっちゃうんだろうか……と考えると、やっぱり「学校教育」に思いが至る。それも小学校の頃からの。

 

あの狂った場所に求められた様々な良い子像のひとつ、「休まずに元気に登校する子」。

これは「勉強ができる」とか「運動ができる」といった他の良い子像と違ってあまり能力を問わず、「無理して頑張ればいける」やつなので、とりわけ人気(?)や普及率(?)が高かったのかもしれない。

 

健康で元気なのはそりゃいいことだ。

でも僕たちは休むべきときにすら休みにくく、休んで尚申し訳ない気持ちになるように、来る日も来る日も、繰り返し繰り返し教育され続けたのだと思う。

これは一体なんのためだったんだろうか。ひと言で言うと「異常」じゃないか。

 

 

ちょっと前の話になる。

 

「あれ? 今日はQさん来てないな」とほんの少しだけ、魚でたとえるならば「ちりめん山椒」くらい心配していると、ほどなくQさんからの電話が鳴る。そして彼はうめくような冴えない声色でこう言うのだ。

 

 

 

「なんとなく休んでええか?」

 

 

 

まさに「ブレイクスルー」の瞬間だった。

 

具体的な理由ははっきりしないんだけど、でもなんか調子悪くって「なんとなく休みたい」ってこと、誰にでもあるあるある。でも休むためのそれらしい理由が必要で、理由があってもガンバリズムを発動しがちな僕たちにとって、この本当の声をそのまんまに発することは至難の技だ。本当の声なのにね。。。

 

一方、発熱や頭痛なんて真っ当でありきたりな理由はとっくの昔にクリアして、近年は「嫌な夢を見た」だの「足が腐った」だのワケの分からない理由をこしらえては休んでいた達人は、また次の段階へと歩を進めたらしい。

 

そしてQさんはその日、「なんとなく」仕事を休んだ。

 

ガンバリズムという呪いから綺麗さっぱり解放されるには、これくらいのダイナミズムが欲しいところだが、なかなか彼のようにはなれない(なりたくない?)のが、多くの人にとっての現実だろう。

 

スウィングではかつて生理休暇の取得率を上げるため、「性別を問わず生理的に無理な日に取ることができる休暇」と規定し直したことがあったが、「今日ちょっと無理なんで」と休んだ人はひとりもいなかった。

 

やっぱり皆、呪いのほうに引っ張られてしまったんだと思う。

 

しかしながらこのコロナ禍においては「不調を感じたら休むこと」がセオリーの1つになっているようだ。

現に3人は呪いの残り香をプンプンさせながらも「休む」という選択をし、そして実行に移した。

 

このセオリーは今後、いや未来永劫語り継ぎ、実践してゆくべきものだろう。

そしていつの日か、仕事や学校を休む理由ナンバーワンが「なんとなく」になったら愉快っちゅーか、イイ感じだろうなあ。。。

 

木ノ戸

 

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木ノ戸昌幸

| 考えごと | 21:05 | comments(0) | -
支え合う「できる」「できない」

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支援とかサポートとかケアとかなんかイヤ。

職員とか利用者とか社会包摂とか共生社会もなんかイヤ。

分断する感じがするから、どことなくフェアな感じがしないからイヤイヤ。

 

こうして終わらないイヤイヤ期を死ぬまで続ける所存であったが、このコロナ禍に際し、【利用者/職員】の暮らし方、そして働き方は大きく、パックリと二分化してしまった。

 

新型コロナウィルス感染拡大防止のため、4月中旬より利用者のほとんどが在宅ワークに移行した一方で、職員は「コロ休」(スウィングが設けた有給休暇制度)を代わる代わる取りつつ、基本的には通常どおりの出勤を続けている。利用者の中にはコロナ禍による変化・変更がどうにも受け入れ難い人、スウィングに来れなくなっちゃうことでかえって外出しまくっちゃう人らがいるからだ。もちろん組織を運営してゆく以上、止められない仕事も少なからずある。

 

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そんな中、職員が渋々来ているのかというとそうでもないようだ。職員にとっても(全員がそうとは言い切れないが)自宅で何日も何日も過ごし続けることは当たり前に辛く、スウィングへ出て来ることがかなりの「息抜き」になっている様子が見て取れる。

 

そうして息抜きをしつつ、在宅ワークをする利用者と連絡を取り合い、話をし、記録を書き留め、送迎の車を運転し、何より刻一刻と変わる未知の仕事をし続けている。

 

皆、ほとんど残業もしないし帰るのは早いが、1日が過ぎるのは本当にあっと言う間だ。

 

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しかしながら連絡を取り、励まし合い、個々の状況を把握するのは「職員」でなければならないのだろうか。 

 

必ずしもそうではないだろう。

しかし適切に聴き取り、適切に記録をし、適切に共有するというハードルをもうけている今、それを(多くは知的障害のある)利用者に委ねることは正直難しい。

 

人としての信頼とか優劣とかそういうのではないと思う。

 

けれど僕たちは、これまでの「できなくたっていいよね!」が通用しない、「現実的に、適切にできなければいけないよね……」という世界を瞬く間に作り上げてしまったか、あるいはそうした世界の中に有無を言わさず放り込まれてしまったのかもしれない…………本当にそうなのだろうか?

 

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じゃあ「適切」ってなんだ? どういうことだ? 

 

この状況下ゆえの標準ラインを定め、マニュアル化し、修正をし続けるのは主に「長」たる僕の役目だとしても、実際、職員個々の能力、【できる/できない】はまちまちだ。つまり「適切」の均一化なんていつまで経ってもできっこない。

 

イヤイヤ、かく言う僕の能力なんてものが高々しれていて、答えは簡単、できない人よりはできるし、できる人よりはできない。これは全人類適用可能、そして自分と誰かを比較し続ける限り永遠に終わらない蟻地獄みたいなものだろう。いきなりだが、かの手塚治虫でさえ「自分は絵が下手だ」という劣等感と終生戦い続けたと聞く。

 

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それに「この状況下ゆえの標準ラインを定め、マニュアル化し、修正をし続ける」のは、また「適切に聴き取り、適切に記録をし、適切に共有する」のは、なんてったって制度に則ってお金を得るためだ。もちろん在宅ワークを続ける皆が少しでも日々を健康的に安心して過ごせるように何らかの働きかけはし続けるにしても、お金がもらえなければ標準化もマニュアル化もたぶんしないし、記録なんて書かない気がする。じゃあ、僕たちが今求めている「できる」はお金のためなのだろうか? 

 

そうだと思う。

 

う〜ん、やっぱりそうか。

お金から逃れられない生活をしている以上卑屈になる必要もないと思うが、だからと言って威張るようなことでも全然ない。なんなら人としてちょっと恥ずかしい気さえしてきました。

 

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たとえばお金じゃなくって「お花」が最もモノ言う世界なら、お金基準の【できる/できない】は通用せず、新たに花基準の【できる/できない】が生まれるのだろうし、歴史を遡れば狩猟採集時代にも【できる/できない】はやはりあったはずだ。でも大活躍した腕利きのハンターがお金儲けや花の育成に長けていたとは限らない。

 

裏と表、陰と陽、弱さと強さ、月と太陽、ぐりとぐら。

 

同じように「できない」があるからこそ「できる」があり、「できる」があるからこそ「できない」もあるのだろう。

上辺だけ見ればどうしたって「できる」が目立ってしまいがちだが、その状況を少し冷静に俯瞰して見れば【できる/できない】は、いつも相互に支え合っていることに気づく。

 

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点数とか評価とか、現実として【できる/できない】によって「差」が生じることはもちろん知っている。

けれどその差によって人間の優劣まで決めてしまわないこと。たまたまその状況に即した「できる」が多いからといって、自分より「できない」人を下に見たり食い物にしたりしないこと。

 

これはきっと、こんな綺麗ごとはきっと、人間だからこそ「できる」ことに違いない。

 

その人間性を捨ててしまうならば、そこに広がるのはできる力が圧倒的にモノ言う(「北斗の拳」みたいな)弱肉強食の世界であり、多様性とは真逆の殺伐とした世界だろう。
 

木ノ戸

 

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木ノ戸昌幸

| 考えごと | 19:01 | comments(0) | -
渋滞つくってんの、自分やで

 

もう20年以上前になるが、「(京都の)鴨川の風景はまるでノーマライゼーションみたいだ」みたいなことを書いたことがある。

そこにはあらゆる垣根や差異を越えて「誰も」がいて、とても平和に幸せそうに過ごしている。なんて素晴らしいんだろう! と感じていたからだ。

 

物理的な意味だけではなく、「目には見えないもの」の存在や大切さを信じることができる今、それが間違いだったことに気づく。


まさに「太平洋ひとりぼっち」。

いや、古い。古いというか違う。


まさに「木を見て森を見ず」。


僕は僕の目に見える小さな小さな景色だけを見て「誰も」がなんて感動していたけれど、そこにはいつだって「いることができる人」しかいなかったのだ。

 

 

4月19日、日曜日の午後。食料品を買うために歩いて出かけると、鴨川が大勢の人で賑わっていた。

ひとりで。家族で。友達同士で。

運動をしたり楽器を演奏したり絵を描いたり、思い思いに過ごす人たちの姿はやはり幸せそうに映ったが、僕にはその景色をどう判断していいのか分からなかった。

 

外だ。とりわけ空気のいい川べりだ。皆、この未知の状況下で行き先を求め、「ここなら」とやって来たのだろう。

人は多いが「密閉」はもちろん、「密集」とも「密接」とも言い難い。

だから、確かにここならOKだろうという思いと、いやいや、あまりに危機感が足りないのでは? という思いが交錯した。

 

いつだったか高速道路でえげつない渋滞に巻き込まれ「バカみたいに行列つくりやがって」とうんざりしていたとき、ふと神様みたいな人(?)の声が、我が脳内に鳴り響いた。

 

 

「自分やで」

 

 

何が? ですか? 

 

 

「だから渋滞つくってんの、自分やで」

 

 

ハッとその意味を理解し、衝撃が走った。


そうか。そうだったのか。


前も後ろも右も左も微動だにしない車だらけ。とっても不快な景色だが、客観的に見れば僕も間違いなくその一部分なのだ。

えげつない渋滞を、バカみたいな行列をつくっているのが「自分自身も」だったなんて。

それからは渋滞に出くわしてもあまりイライラしなくなった。


 

さて、鴨川の風景に危機感を問うたその後、むくむくと蘇ったのはあの声だ。

つまり食料品の買い物という必要不可欠な目的こそあったものの、僕もその風景の一部だったのではないか。

 

是か非かは分からない(今、僕たちは分からないの中を生きている)。

 

けれど「理由」や「事情」を大義名分にして「自分(たち)は違う」と例外適用する、この厄介な癖。


ひょっとして、あなたも持っていやしないだろうか?

 

木ノ戸

 

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| 考えごと | 19:36 | comments(0) | -
選挙も市長もいらない

 

京都市長選挙前日、とある人とほんの束の間語り合った。「あの広告より怖いのは、あの広告を出した人(たちに支援されている人)が選ばれることなんですよね」と。

 

結果を知って、夢かと思った。いや実際、夢に見たのかもしれない。

が、いずれにせよそれは悪夢だった。

 

大切な京都に 共産党の市長は「NO」

 

僕はあの広告を見て、我が目を疑った。そしてこんなことがまかり通るなんてウソだと思った。あまりの下劣さに、そこに在る100%の悪意に涙が止まらなかった。

 

クールぶった人たちは「お決まりの反共広告」だなんて、知ったふうな物言いをしていたようだ。そうか、お決まりだったのか。ならば僕が世間を知らなさすぎたのだろう。けれどあんたたちの言葉や言論に対する感受性も完全にイカれてしまっているようだ。頼むからもう黙ってくれ。

 

(きっと多くの人たちがそうであるように)いつの頃からか、この国はもう終わっていると感じてきた。でも、伝え聞く酷い状況はまだまだどこか他人事で、手応えや現実感に乏しかった……というより、認めたくなかったのだと思う。「目の前のこの社会」はまだ違う、と。

 

けれどあの広告は本当に、超えてはならない一線を超えていた。そして最も恐れていたのは、その広告主たちの勝利であった。勝つために手段を選ばず、ひとりの人間を公明正大に排除しようとした勢力が勝ち、万歳三唱を繰り広げている、そんな「目の前の社会」に僕たちは確かに生きていて、そんな社会を作っているのは僕たち一人ひとりだ。

 

終わっている社会が、自分事になった瞬間だった。

 

けれど意外なことに、僕にかすかな希望をもたらしてくれたのは、スウィングにも大勢いた「投票をしない人たち」だ。そのうちのひとり、あちゃみちゃんは「なぜ投票に行かなかったのか?」という問いに対し、即座にこう答えた。

 

「だって私の一票では変わらへんもん」

 

キレ気味に言うそれは、どこかで聞いたような台詞だ。「それは違う」と僕は瞬時に髪を逆立てた(今は間違いだったと思っている)。例えばあなたの髪の毛はどうだ? と。一本一本があるからあなたの黒黒とした頭(?)があるんじゃないか。選挙もそれと同じだ。一票一票の積み重ねで全体が、勝ち負けが決まるのだ。票を投じなかった6割の人たちが、もし今回の選挙に参加していたなら、黒黒とフサフサになったのは違う人だったかもしれないと。

 

……ん? ……6割? ……60%?

 

つまり投票率は40%。改めて見るとこの数字のインパクトは絶大だ。選挙はわずか40%の票のなかで争われ、結果が出たけれども、「投票をしなかった人」が過半数どころかおよそ60%にも及んでいたのだ。

 

前回選より5ポイント増ということだが、誰がどう見たって圧倒的大多数であり、これはもう、個々人の問題なんかではない。

 

あるいは「投票をしない人たち」は義務と責任を果たさなかった不届き者……ではなく「選挙なんていらない」「市長なんていらない」とメチャクチャ冷静に、無言のうちに語っているんじゃないか。

 

選挙も市長もいらない。

 

そうなのかもしれない。だって大枚はたいて、とんでもない人と労力と時間を費やして必死にアピールして、それでも6割の「いい大人たち」が投票しないのだ。もう何かが確実に死んでいるのは明白ではないか。僕自身もなぜ選挙が、市長が必要なのか、考えれば考えるほどまるで分からなくなってきた。

 

あちゃみちゃんがひとしきり(100万個くらいありそうな)選挙に行かない理由を語り終えた後、最後に言い放った言葉は真を突いていたように思う。

 

「どうせ分からないんやから、選挙権をなくしてほしい」

 

一票を投じた4割の人たちには、大なり小なりそれぞれの理由や根拠があるのだと思う。そして結果がどうであれ、「私は選挙に行った、政治に参加した」と少し胸を張ることができる。一方、選挙に行かなかった人たちは(僕がそうしたように)概して責められる。なんで投票しないの? 自分のことなのに、子どもたちの未来のことなのに、と。

 

でも現に、政治と不可分と言われる暮らしをつつましく送る彼女は、そして6割もの人たちは、投票に行かないという選択をしたのである。そして「分からない」は、政治家の言うことは難しくて分からない、そして同時に誰を選べはいいのか分からないという意味だ。

 

確かに。

 

簡単ならいいというわけでもないだろうが、彼らの喋り、主張、訴えは難しくって分かりにくい。しかも「選挙戦」というお祭り騒ぎの限られた短期間だけに現れて、やたらと愛想よく手を振りまくり、皆が皆分かりにくく、でもいいことっぽいことを言うだけ言って、「選挙戦」が終われば瞬く間に姿を消す。

 

つまりまったく暮らしと地続きではない。

 

だから真剣に考えれば考えるほど誰に投票したらいいのか分からなくなるし、気持ちが萎える。まったくもって正論である。そして、あちゃみちゃんが「私の一票では変わらへんもん」と言ったのは、「誰が市長に選ばれるのか?」という結果ではなく、この社会そのものを指しているんじゃないか。それは即ち、選挙は有権者の義務だの責任だのという正義を恥ずかしげもなくのたまう僕なんかより、よっぽど深い失望であり絶望である。

 

学校に行かない子どもを責めるのは、引きこもりだのニートだの社会に出ない大人を責めるのはもう違う。

 

同じように「投票しない人たち」を責めるのではなく、その圧倒的大多数の声に耳を澄まし、耳を傾けること。それこそが綺麗事ではなく、暮らしと政治を繋げるヒントであり、かすかな希望であるような気がする。60%は単なる塊ではなく、意思ある市民一人ひとりなのだ。

 

あんなあってはならないヘイト広告を出したメディアに、本気で社会を変えようとしている候補者に、本物のメディアとして、政治家として、自身の信条や政策を訴え続ける、その覚悟があるのだろうか。 

 

いや、もはや本物のメディアも政治家もクソもない。

問われているのは「政治そのもの」である自身の生き方、それだけなのかもしれない。

 

木ノ戸

| 考えごと | 14:58 | comments(0) | -
紙切れ一枚分の希望


昨日、初日を迎えた展覧会会場で、京都市長選挙の話になった。  

 

スウィングの利用者は現在29名。 その多くは常々、選挙に行っていないようだ。 

 

何らかの障害がある。 

 

そのことはたとえ選挙権があっても、「投票へ行くこと」をかなり遠いものにしている。印象や全体論で括ることの危険は承知しつつ、実感としてそう思う。

 

 

 政治は暮らしと繋がっているとか、投票は有権者の義務であるとか、そんなのは説得力皆無の、ただの綺麗事だ。

 

暮らしと繋がっていると、権利であり義務であると実感できないからこそ、「投票という行動」へ結びつかないのではないか。 

 

例えばあの、投票所の雰囲気。暮らしの延長の割にはあまりにも敷居が高く、物々しすぎる。あの場に漂う失敗が許されないような空気や雰囲気は、人を萎縮・緊張させ、投票から遠ざけるのに十分だ。 

 

 

また、投票したくてもできない人、政治と不可分に繋がる暮らしを生きつつ、選挙権のない人たちの存在を、「できること」や「あること」に慣れてしまった僕たちは知らなさすぎるのではないか。 

 

政治と暮らしが繋がっているなら、ひとりの市民として、このクソみたいな現実社会を誠実に生きることこそが最も尊い政治参加だ。

 

「できること」や「あること」は決して当たり前ではない。クソみたいな現実は誰が選ばれようと突然変わったりはしない。 

 

それでも一人ひとりの一票に、紙切れ一枚分の、一縷の希望が宿っていると信じたい。

 

木ノ戸

| 考えごと | 11:28 | comments(0) | -
広告:大切な京都に共産党の市長は「NO」/京都新聞社の見解

 

昨日の広告(大切な京都に共産党の市長は「NO」)について、京都新聞社に問い合わせた。いろいろ言うてはったけど、以下が京都新聞社の見解である。

 

●特定の個人を指すものではない。 

●特定の個人を誹謗中傷したり貶めるものではない。よって公職選挙法違反には当たらない。 

●上記は京都新聞社も広告主である「未来の京都をつくる会」も選管に確認している。 

●「政策を訴える広告」と判断した。「未来の〜」が政策と言っているわけではないが、京都新聞社がそう判断した。 

●政策とは「政治団体が訴えるものすべて」という理解。 

●「広告掲載基準」に則って掲載を決定した。 

 

概ね以上だ。

 

 

 

共産党推薦はひとりしかいない、市長候補は3人しかいない状況で、これが誰を特定しているかは猿でも分かる(猿に申し訳ない……)。  

 

まるで悪夢だ。

なぜそんなくだらない嘘を、新聞社が堂々とつけるのか。

 

「政策」という解釈も異常だ。

ここにあるのは醜い、あまりにも子どもじみた(子どもに申し訳ない……)「悪口」だけではないか。信じられない。

 

京都新聞社ではなく、あなたはどう思うのか? と担当者には何度も尋ねたが、ここで個人的な意見を言うことはできないと、苦しそうにかわされ続けた。

実際、その方の対応や語り口自体に葛藤や真摯さを感じたのは小さな救いだったのだが、じゃあ彼はどこでなら本当のことを言えるのだろう。

 

あまりのことに驚き、哀しみ、傷ついている。

冷静に、メディアとしてのプライドを持って顧みてほしいと伝え、話を終えた。

 

木ノ戸

 

【広告掲載基準】 

https://pr.kyoto-np.jp/ad/kijun/index.html 

 

以下、一部抜粋

 

(3)政党およびその他の政治団体の広告(公選法第201条)

私費による政党およびその他の政治団体等の新聞広告を使用した政治活動は、選挙運動にわたらない限り選挙期間中であっても行うことができます。

1.掲載不可のもの。 特定の候補者や政党等への投票の呼びかけ、反対する者への不投票の呼びかけなど、選挙運動とみなされるものはすべて掲載できません。

※選挙機運が一般化する投票日の3カ月位前からは広告中に候補者名、予定候補者名または氏名類推事項の掲載は慎重に取り扱います。

ア)候補者の氏名、シンボルマーク、政党、政治団体の名称で、候補者を推薦、支持し、投票の呼びかけの表現のものは掲載できません。

〔不可例〕「○○○○候補を支持します」、「○○党は○○○○候補を推薦します」、「歴史的な一票を○○党へ」、「○月○日 投票」、「投票日は○月○日」、「あなたの一票は○○党へ」等。

| 考えごと | 18:10 | comments(0) | -
しばらく京都には来ないでください

 

信じられない新聞広告を目にした。

岡山で充実した2日間を過ごし、心地よい疲労感に浸っていたその最中に。

 

涙が止まらない。

 

新幹線の中でも、バスの中でも、そして今も泣き続けている。

 

ここに書かれていることは一体何なのだろうか??

 

京都の未来を作るとか言ってる人たちが、こんなにも心ないやり方で、たとえ方法や思いに違いはあるとしても、本気で京都を良くしたいと奔走しているひとりの「京都市民」を露骨に攻撃し、排斥しようとしている。

 

情けない。逸脱している。

完全にアウトだ。許されない。

 

これを掲載した新聞というメディアにも絶望する。 

プライドはないのか??

 

子どもに見せてはいけない。

こんなものは、ただでさえ不安で不透明な未来の足枷にしかならない。

 

京都に来て、もう20年以上になる。

「京都」の壁は厚い。よそから来た「外様」であることを理屈でなく、肌感覚として未だに感じ続けているし、ずっと悩んでいる。いつもいつもというわけではないけれども。

 

しかしながら、「京都市民」であることを心から恥じたのは今日がはじめてだ。 正直、ここまでキテいるとは思っていなかった。

 

恐らく、高いお金を払ってこの広告を載せた人たちは、この広告が含有した暴力性や排他性、あるいは特定の個人、ひとりの人間を悪意100%で公然と攻撃し、傷つけていることに「気づいていない」のだ。

 

そこが一番怖い。

 

その感性で未来を作れると思っていることが恐ろしすぎる。

 

選挙はパワーゲームだ。けれど市長候補であろうが、手段であろうが、広告だろうが、勝ち負けが全てだろうが、人間性や「人を傷つけ、排他することの恐ろしさ」(=自分が傷つけられ、排他されることの恐ろしさ)への想像力を失ったならば、もう終わりだと思う。 彼らはもう疲れ切ってしまっていて、麻痺しているのだと信じたい。もう休んでほしい。そうじゃなければ、今夜僕が眠れない。

 

攻撃された側は、今が反撃のチャンス! だと息巻くのだろうか?

 

それも違うと思う。これはそんなんではない。そういう次元の話ではない。

 

ちゃんと傷ついてほしい。

哀しんでほしい。

 

未来は今と地続きだ。 今を大切にできない人に、決してより良い未来は築けない。

 

世界中からたくさんの人が訪れるKYOTOは、実はここまでダサい状況です。虚栄と慢心から解き放たれるまで、今しばらくお待ちください。

 

木ノ戸

| 考えごと | 02:18 | comments(0) | -
眠らなければ死ぬ

DSC_0004.JPG

 

遂に100万部を突破した(大嘘ですよ!!!)『まともがゆれる』を書いているとき、夢中になっているうちに次第に朝も昼も夜もなくなり、つまり生活がグチャグチャになってしまって、内心「こんな生活をしていたら絶対にアカン気がする……」とうっすら思いながら、それでもやめることができなかった。

責任感もあった。伝えたいこともあった。締め切りもあった。いろいろあった。

でも結局、「書くことが好きな自分」が最大の動力源だった。

 

1年ほど前だったか、ある好きなことばかりしている人が、「このまま好きなことばかりし続けたら死にますよ」と、どなたかに言われたそうだ。

この話を聞いた当時は「聞いたことねー」と笑ったものだが、今は「なるほど、めっちゃ分かるぞ」と思っている。

 

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たとえば子どもは楽しくってテンションが上がりまくっているとき、もはやその日の体力の限界を超えていても、日が暮れても、お寝むの時間が来ても、アホみたいに遊び続けようとする。

そしてその挙げ句、最後は「そこ、どこ???」みたいなところで、電池が切れたみたいにグースカ眠っていたりする。

つまり子どもの動力源はシンプルだから、然るべきタイミングで勝手に「落ちる」(=強制的に眠らせる)仕組みになっているのだろう。

 

でも、この強制グースカがなければ子どもは一体どうなるだろう? 

 

133-pictogram-illustration.jpg

 

対して大人の動力源は「大人は遅くまで起きててもだいじょうぶ! このプラモが完成するまでは眠らないって決めたんだもん!」とかいう根拠なき自信&決意によって、本人に止める気がなければ動き続けてしまう。

 

子どもが大人になるその瞬間を美しく切り取った長田弘の『あのときかもしれない』は、胸がキュンキュン鳴りっぱなしの名詩集だ。

僕は思う。

眠気の限界を超え、夜中の2時を過ぎてもプラモデルを作り続けたあの夜が、大人になった瞬間だったのかもしれない、と。

ちなみにこれはたとえで、僕はプラモデルというものをこれまで一度も作ったことがない。

 

でも、言うまでもなく子どもも大人も同んなじ人間だし、どんな大人だって子どもの延長を生き続けている。

そして賢ぶってるだけで、どちらと言えばバカなのはいつだって大人のほうなのであり、その日のエネルギーが切れ、然るべきタイミングで勝手に「落ちる」(=強制的に眠らせる)仕組みのほうがよほど高性能……というか、そもそもこの仕組みは子どもであろうが大人であろうが関係なく、生物として本来的に備わっている大切なものなんじゃないだろうか。

 

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では、なぜ眠るのか?


それは「眠らないと死ぬから」である。

 

ああ、「睡眠が大事」という、これまで100億回くらい聞かされてきたあのフレーズが遂に腑に落ちるときがやって来るとは。

そうか、いろんな人が一生懸命「大事、大事」言うてたのは死ぬからだったのか。

分かりにくいなあ、もう! 「死ぬよ?」って、はっきり言ってくれたら、もっと早く寝たのに!

 

本を執筆中に感じた「アカン気がする……」の正体。

それは即ち「死」であった。

いや、簡単なことだ。「食べなければ死ぬ」と皆が知っているように、「眠らなければ死ぬ」も、人が本来的に持っている真理のひとつ、分かりやすく言えば「死なずに生きる基本」みたいなもののはずだ(なんじゃ、そりゃ)。

師弟の問答風に書けばこうなる。

 

「師よ。ずっと眠らなければどうなりますか?」

「う〜んと、いろんな段階があるけど、最終的には死んじゃうよね!」

 

僕は二十歳頃から不眠に悩むことがままあって現在も眠剤ユーザーなのだが、不眠そのものより「眠れないかもしれないこと」を恐怖している自分を自覚している。

そして「今夜も眠れない。いろいろできるぜ、ラッキー!」とならないのは、「生活リズムが乱れる」とか「眠れなければ明日が辛い」とかよりもっと深い、「眠らなければ死ぬ」という根源的な恐怖感が根っこにあるような気がするのだ。

 

でも、そうか。やっぱり、そうなのか。

だから村上春樹やイチローやカズはめちゃくちゃ規則正しい生活を送っているのか(今は知らないし、すべて聞きかじりである)。

いや、こんな有名人たちの名前を出すまでもなく、僕の平和の物差し、ミサさんは「美味しいご飯を食べてお風呂に入って10時には寝ることが一番の幸せ」と悟った人かのように語り、見事なまでにその生活を守り続けているではないか。

 

 

先日、久しぶりに『崖の上のポニョ』を観た。

「そうすけ、好き〜!」を強烈な原動力にして、天変地異を引き起こしながら生き生きと駆け回るポニョは、突然、それまでの元気な様子が打って変わったように、ラーメンを食べながら深い眠りに落ちてしまう。

恐らくあのままのテンション、エネルギーで走り続けていたら、さすがのポニョもヤバかったのだろう。

まさか、巨匠・宮崎駿をもってして伝えたかったことがこれだったとは。

 

眠らなければ……。

 

木ノ戸

| 考えごと | 16:50 | comments(0) | trackbacks(0)
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