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選挙も市長もいらない

 

京都市長選挙前日、とある人とほんの束の間語り合った。「あの広告より怖いのは、あの広告を出した人(たちに支援されている人)が選ばれることなんですよね」と。

 

結果を知って、夢かと思った。いや実際、夢に見たのかもしれない。

が、いずれにせよそれは悪夢だった。

 

大切な京都に 共産党の市長は「NO」

 

僕はあの広告を見て、我が目を疑った。そしてこんなことがまかり通るなんてウソだと思った。あまりの下劣さに、そこに在る100%の悪意に涙が止まらなかった。

 

クールぶった人たちは「お決まりの反共広告」だなんて、知ったふうな物言いをしていたようだ。そうか、お決まりだったのか。ならば僕が世間を知らなさすぎたのだろう。けれどあんたたちの言葉や言論に対する感受性も完全にイカれてしまっているようだ。頼むからもう黙ってくれ。

 

(きっと多くの人たちがそうであるように)いつの頃からか、この国はもう終わっていると感じてきた。でも、伝え聞く酷い状況はまだまだどこか他人事で、手応えや現実感に乏しかった……というより、認めたくなかったのだと思う。「目の前のこの社会」はまだ違う、と。

 

けれどあの広告は本当に、超えてはならない一線を超えていた。そして最も恐れていたのは、その広告主たちの勝利であった。勝つために手段を選ばず、ひとりの人間を公明正大に排除しようとした勢力が勝ち、万歳三唱を繰り広げている、そんな「目の前の社会」に僕たちは確かに生きていて、そんな社会を作っているのは僕たち一人ひとりだ。

 

終わっている社会が、自分事になった瞬間だった。

 

けれど意外なことに、僕にかすかな希望をもたらしてくれたのは、スウィングにも大勢いた「投票をしない人たち」だ。そのうちのひとり、あちゃみちゃんは「なぜ投票に行かなかったのか?」という問いに対し、即座にこう答えた。

 

「だって私の一票では変わらへんもん」

 

キレ気味に言うそれは、どこかで聞いたような台詞だ。「それは違う」と僕は瞬時に髪を逆立てた(今は間違いだったと思っている)。例えばあなたの髪の毛はどうだ? と。一本一本があるからあなたの黒黒とした頭(?)があるんじゃないか。選挙もそれと同じだ。一票一票の積み重ねで全体が、勝ち負けが決まるのだ。票を投じなかった6割の人たちが、もし今回の選挙に参加していたなら、黒黒とフサフサになったのは違う人だったかもしれないと。

 

……ん? ……6割? ……60%?

 

つまり投票率は40%。改めて見るとこの数字のインパクトは絶大だ。選挙はわずか40%の票のなかで争われ、結果が出たけれども、「投票をしなかった人」が過半数どころかおよそ60%にも及んでいたのだ。

 

前回選より5ポイント増ということだが、誰がどう見たって圧倒的大多数であり、これはもう、個々人の問題なんかではない。

 

あるいは「投票をしない人たち」は義務と責任を果たさなかった不届き者……ではなく「選挙なんていらない」「市長なんていらない」とメチャクチャ冷静に、無言のうちに語っているんじゃないか。

 

選挙も市長もいらない。

 

そうなのかもしれない。だって大枚はたいて、とんでもない人と労力と時間を費やして必死にアピールして、それでも6割の「いい大人たち」が投票しないのだ。もう何かが確実に死んでいるのは明白ではないか。僕自身もなぜ選挙が、市長が必要なのか、考えれば考えるほどまるで分からなくなってきた。

 

あちゃみちゃんがひとしきり(100万個くらいありそうな)選挙に行かない理由を語り終えた後、最後に言い放った言葉は真を突いていたように思う。

 

「どうせ分からないんやから、選挙権をなくしてほしい」

 

一票を投じた4割の人たちには、大なり小なりそれぞれの理由や根拠があるのだと思う。そして結果がどうであれ、「私は選挙に行った、政治に参加した」と少し胸を張ることができる。一方、選挙に行かなかった人たちは(僕がそうしたように)概して責められる。なんで投票しないの? 自分のことなのに、子どもたちの未来のことなのに、と。

 

でも現に、政治と不可分と言われる暮らしをつつましく送る彼女は、そして6割もの人たちは、投票に行かないという選択をしたのである。そして「分からない」は、政治家の言うことは難しくて分からない、そして同時に誰を選べはいいのか分からないという意味だ。

 

確かに。

 

簡単ならいいというわけでもないだろうが、彼らの喋り、主張、訴えは難しくって分かりにくい。しかも「選挙戦」というお祭り騒ぎの限られた短期間だけに現れて、やたらと愛想よく手を振りまくり、皆が皆分かりにくく、でもいいことっぽいことを言うだけ言って、「選挙戦」が終われば瞬く間に姿を消す。

 

つまりまったく暮らしと地続きではない。

 

だから真剣に考えれば考えるほど誰に投票したらいいのか分からなくなるし、気持ちが萎える。まったくもって正論である。そして、あちゃみちゃんが「私の一票では変わらへんもん」と言ったのは、「誰が市長に選ばれるのか?」という結果ではなく、この社会そのものを指しているんじゃないか。それは即ち、選挙は有権者の義務だの責任だのという正義を恥ずかしげもなくのたまう僕なんかより、よっぽど深い失望であり絶望である。

 

学校に行かない子どもを責めるのは、引きこもりだのニートだの社会に出ない大人を責めるのはもう違う。

 

同じように「投票しない人たち」を責めるのではなく、その圧倒的大多数の声に耳を澄まし、耳を傾けること。それこそが綺麗事ではなく、暮らしと政治を繋げるヒントであり、かすかな希望であるような気がする。60%は単なる塊ではなく、意思ある市民一人ひとりなのだ。

 

あんなあってはならないヘイト広告を出したメディアに、本気で社会を変えようとしている候補者に、本物のメディアとして、政治家として、自身の信条や政策を訴え続ける、その覚悟があるのだろうか。 

 

いや、もはや本物のメディアも政治家もクソもない。

問われているのは「政治そのもの」である自身の生き方、それだけなのかもしれない。

 

木ノ戸

| 考えごと | 14:58 | comments(0) | -
紙切れ一枚分の希望


昨日、初日を迎えた展覧会会場で、京都市長選挙の話になった。  

 

スウィングの利用者は現在29名。 その多くは常々、選挙に行っていないようだ。 

 

何らかの障害がある。 

 

そのことはたとえ選挙権があっても、「投票へ行くこと」をかなり遠いものにしている。印象や全体論で括ることの危険は承知しつつ、実感としてそう思う。

 

 

 政治は暮らしと繋がっているとか、投票は有権者の義務であるとか、そんなのは説得力皆無の、ただの綺麗事だ。

 

暮らしと繋がっていると、権利であり義務であると実感できないからこそ、「投票という行動」へ結びつかないのではないか。 

 

例えばあの、投票所の雰囲気。暮らしの延長の割にはあまりにも敷居が高く、物々しすぎる。あの場に漂う失敗が許されないような空気や雰囲気は、人を萎縮・緊張させ、投票から遠ざけるのに十分だ。 

 

 

また、投票したくてもできない人、政治と不可分に繋がる暮らしを生きつつ、選挙権のない人たちの存在を、「できること」や「あること」に慣れてしまった僕たちは知らなさすぎるのではないか。 

 

政治と暮らしが繋がっているなら、ひとりの市民として、このクソみたいな現実社会を誠実に生きることこそが最も尊い政治参加だ。

 

「できること」や「あること」は決して当たり前ではない。クソみたいな現実は誰が選ばれようと突然変わったりはしない。 

 

それでも一人ひとりの一票に、紙切れ一枚分の、一縷の希望が宿っていると信じたい。

 

木ノ戸

| 考えごと | 11:28 | comments(0) | -
広告:大切な京都に共産党の市長は「NO」/京都新聞社の見解

 

昨日の広告(大切な京都に共産党の市長は「NO」)について、京都新聞社に問い合わせた。いろいろ言うてはったけど、以下が京都新聞社の見解である。

 

●特定の個人を指すものではない。 

●特定の個人を誹謗中傷したり貶めるものではない。よって公職選挙法違反には当たらない。 

●上記は京都新聞社も広告主である「未来の京都をつくる会」も選管に確認している。 

●「政策を訴える広告」と判断した。「未来の〜」が政策と言っているわけではないが、京都新聞社がそう判断した。 

●政策とは「政治団体が訴えるものすべて」という理解。 

●「広告掲載基準」に則って掲載を決定した。 

 

概ね以上だ。

 

 

 

共産党推薦はひとりしかいない、市長候補は3人しかいない状況で、これが誰を特定しているかは猿でも分かる(猿に申し訳ない……)。  

 

まるで悪夢だ。

なぜそんなくだらない嘘を、新聞社が堂々とつけるのか。

 

「政策」という解釈も異常だ。

ここにあるのは醜い、あまりにも子どもじみた(子どもに申し訳ない……)「悪口」だけではないか。信じられない。

 

京都新聞社ではなく、あなたはどう思うのか? と担当者には何度も尋ねたが、ここで個人的な意見を言うことはできないと、苦しそうにかわされ続けた。

実際、その方の対応や語り口自体に葛藤や真摯さを感じたのは小さな救いだったのだが、じゃあ彼はどこでなら本当のことを言えるのだろう。

 

あまりのことに驚き、哀しみ、傷ついている。

冷静に、メディアとしてのプライドを持って顧みてほしいと伝え、話を終えた。

 

木ノ戸

 

【広告掲載基準】 

https://pr.kyoto-np.jp/ad/kijun/index.html 

 

以下、一部抜粋

 

(3)政党およびその他の政治団体の広告(公選法第201条)

私費による政党およびその他の政治団体等の新聞広告を使用した政治活動は、選挙運動にわたらない限り選挙期間中であっても行うことができます。

1.掲載不可のもの。 特定の候補者や政党等への投票の呼びかけ、反対する者への不投票の呼びかけなど、選挙運動とみなされるものはすべて掲載できません。

※選挙機運が一般化する投票日の3カ月位前からは広告中に候補者名、予定候補者名または氏名類推事項の掲載は慎重に取り扱います。

ア)候補者の氏名、シンボルマーク、政党、政治団体の名称で、候補者を推薦、支持し、投票の呼びかけの表現のものは掲載できません。

〔不可例〕「○○○○候補を支持します」、「○○党は○○○○候補を推薦します」、「歴史的な一票を○○党へ」、「○月○日 投票」、「投票日は○月○日」、「あなたの一票は○○党へ」等。

| 考えごと | 18:10 | comments(0) | -
しばらく京都には来ないでください

 

信じられない新聞広告を目にした。

岡山で充実した2日間を過ごし、心地よい疲労感に浸っていたその最中に。

 

涙が止まらない。

 

新幹線の中でも、バスの中でも、そして今も泣き続けている。

 

ここに書かれていることは一体何なのだろうか??

 

京都の未来を作るとか言ってる人たちが、こんなにも心ないやり方で、たとえ方法や思いに違いはあるとしても、本気で京都を良くしたいと奔走しているひとりの「京都市民」を露骨に攻撃し、排斥しようとしている。

 

情けない。逸脱している。

完全にアウトだ。許されない。

 

これを掲載した新聞というメディアにも絶望する。 

プライドはないのか??

 

子どもに見せてはいけない。

こんなものは、ただでさえ不安で不透明な未来の足枷にしかならない。

 

京都に来て、もう20年以上になる。

「京都」の壁は厚い。よそから来た「外様」であることを理屈でなく、肌感覚として未だに感じ続けているし、ずっと悩んでいる。いつもいつもというわけではないけれども。

 

しかしながら、「京都市民」であることを心から恥じたのは今日がはじめてだ。 正直、ここまでキテいるとは思っていなかった。

 

恐らく、高いお金を払ってこの広告を載せた人たちは、この広告が含有した暴力性や排他性、あるいは特定の個人、ひとりの人間を悪意100%で公然と攻撃し、傷つけていることに「気づいていない」のだ。

 

そこが一番怖い。

 

その感性で未来を作れると思っていることが恐ろしすぎる。

 

選挙はパワーゲームだ。けれど市長候補であろうが、手段であろうが、広告だろうが、勝ち負けが全てだろうが、人間性や「人を傷つけ、排他することの恐ろしさ」(=自分が傷つけられ、排他されることの恐ろしさ)への想像力を失ったならば、もう終わりだと思う。 彼らはもう疲れ切ってしまっていて、麻痺しているのだと信じたい。もう休んでほしい。そうじゃなければ、今夜僕が眠れない。

 

攻撃された側は、今が反撃のチャンス! だと息巻くのだろうか?

 

それも違うと思う。これはそんなんではない。そういう次元の話ではない。

 

ちゃんと傷ついてほしい。

哀しんでほしい。

 

未来は今と地続きだ。 今を大切にできない人に、決してより良い未来は築けない。

 

世界中からたくさんの人が訪れるKYOTOは、実はここまでダサい状況です。虚栄と慢心から解き放たれるまで、今しばらくお待ちください。

 

木ノ戸

| 考えごと | 02:18 | comments(0) | -
眠らなければ死ぬ

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遂に100万部を突破した(大嘘ですよ!!!)『まともがゆれる』を書いているとき、夢中になっているうちに次第に朝も昼も夜もなくなり、つまり生活がグチャグチャになってしまって、内心「こんな生活をしていたら絶対にアカン気がする……」とうっすら思いながら、それでもやめることができなかった。

責任感もあった。伝えたいこともあった。締め切りもあった。いろいろあった。

でも結局、「書くことが好きな自分」が最大の動力源だった。

 

1年ほど前だったか、ある好きなことばかりしている人が、「このまま好きなことばかりし続けたら死にますよ」と、どなたかに言われたそうだ。

この話を聞いた当時は「聞いたことねー」と笑ったものだが、今は「なるほど、めっちゃ分かるぞ」と思っている。

 

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たとえば子どもは楽しくってテンションが上がりまくっているとき、もはやその日の体力の限界を超えていても、日が暮れても、お寝むの時間が来ても、アホみたいに遊び続けようとする。

そしてその挙げ句、最後は「そこ、どこ???」みたいなところで、電池が切れたみたいにグースカ眠っていたりする。

つまり子どもの動力源はシンプルだから、然るべきタイミングで勝手に「落ちる」(=強制的に眠らせる)仕組みになっているのだろう。

 

でも、この強制グースカがなければ子どもは一体どうなるだろう? 

 

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対して大人の動力源は「大人は遅くまで起きててもだいじょうぶ! このプラモが完成するまでは眠らないって決めたんだもん!」とかいう根拠なき自信&決意によって、本人に止める気がなければ動き続けてしまう。

 

子どもが大人になるその瞬間を美しく切り取った長田弘の『あのときかもしれない』は、胸がキュンキュン鳴りっぱなしの名詩集だ。

僕は思う。

眠気の限界を超え、夜中の2時を過ぎてもプラモデルを作り続けたあの夜が、大人になった瞬間だったのかもしれない、と。

ちなみにこれはたとえで、僕はプラモデルというものをこれまで一度も作ったことがない。

 

でも、言うまでもなく子どもも大人も同んなじ人間だし、どんな大人だって子どもの延長を生き続けている。

そして賢ぶってるだけで、どちらと言えばバカなのはいつだって大人のほうなのであり、その日のエネルギーが切れ、然るべきタイミングで勝手に「落ちる」(=強制的に眠らせる)仕組みのほうがよほど高性能……というか、そもそもこの仕組みは子どもであろうが大人であろうが関係なく、生物として本来的に備わっている大切なものなんじゃないだろうか。

 

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では、なぜ眠るのか?


それは「眠らないと死ぬから」である。

 

ああ、「睡眠が大事」という、これまで100億回くらい聞かされてきたあのフレーズが遂に腑に落ちるときがやって来るとは。

そうか、いろんな人が一生懸命「大事、大事」言うてたのは死ぬからだったのか。

分かりにくいなあ、もう! 「死ぬよ?」って、はっきり言ってくれたら、もっと早く寝たのに!

 

本を執筆中に感じた「アカン気がする……」の正体。

それは即ち「死」であった。

いや、簡単なことだ。「食べなければ死ぬ」と皆が知っているように、「眠らなければ死ぬ」も、人が本来的に持っている真理のひとつ、分かりやすく言えば「死なずに生きる基本」みたいなもののはずだ(なんじゃ、そりゃ)。

師弟の問答風に書けばこうなる。

 

「師よ。ずっと眠らなければどうなりますか?」

「う〜んと、いろんな段階があるけど、最終的には死んじゃうよね!」

 

僕は二十歳頃から不眠に悩むことがままあって現在も眠剤ユーザーなのだが、不眠そのものより「眠れないかもしれないこと」を恐怖している自分を自覚している。

そして「今夜も眠れない。いろいろできるぜ、ラッキー!」とならないのは、「生活リズムが乱れる」とか「眠れなければ明日が辛い」とかよりもっと深い、「眠らなければ死ぬ」という根源的な恐怖感が根っこにあるような気がするのだ。

 

でも、そうか。やっぱり、そうなのか。

だから村上春樹やイチローやカズはめちゃくちゃ規則正しい生活を送っているのか(今は知らないし、すべて聞きかじりである)。

いや、こんな有名人たちの名前を出すまでもなく、僕の平和の物差し、ミサさんは「美味しいご飯を食べてお風呂に入って10時には寝ることが一番の幸せ」と悟った人かのように語り、見事なまでにその生活を守り続けているではないか。

 

 

先日、久しぶりに『崖の上のポニョ』を観た。

「そうすけ、好き〜!」を強烈な原動力にして、天変地異を引き起こしながら生き生きと駆け回るポニョは、突然、それまでの元気な様子が打って変わったように、ラーメンを食べながら深い眠りに落ちてしまう。

恐らくあのままのテンション、エネルギーで走り続けていたら、さすがのポニョもヤバかったのだろう。

まさか、巨匠・宮崎駿をもってして伝えたかったことがこれだったとは。

 

眠らなければ……。

 

木ノ戸

| 考えごと | 16:50 | comments(0) | trackbacks(0)
好きなことばかりしているからって。

 

スウィングでは好きなことばかりさせてもらっている。

好きなように文章を書いたり好きなように展覧会を企画したり好きなようにフリーペーパーを作ったり。

もちろんできれば避けたいことややりたくないこともたくさんあるけれど、基本的にはいつの間にか、好きなことばかりさせてもらっている。

 

なぜ、そんな状況が生まれているのか。 

 

どれだけ綺麗ごとを並べ立てても、「代表」とか「理事長」とか僕が権力者だからだろうか? 恐らくそれもあるだろう。

好きなようにやっていることが、誰かに面白いと思ってもらえているからだろうか? 恐らくそれもあるだろう。

 

 

でもその一番の要因は、スウィングでは、(どれだけ社会的にくだらなくても)好きなように自分を表現することが「是」とされていて……それがその人の「仕事」と揺るぎなく認められていて……むしろそれがスウィングの「普通」になっていて……いや、綺麗すぎる。そんなんじゃなく、これだ。

 

もはや、誰が、何をやっていても、それほど興味も関心も持たれないから。

 

なのだと思う。

実際、僕は最近、スウィングの誰かが表した表現なり作品なりにじっくりと触れることなんてほとんどないし、僕の仕事をあーだこーだ言われることもない。

そしてこれは僕だけではなく、スウィングで日々を生きる、多くの人に同じように起こっている現象のように見える。

 

つまり、それぞれが好きなように表現することが、「空気」みたいになっているのだ。

 

 

が、ここで勘違いをしていただきたくはない。

こんなことを書くと自由でいいなとか、さぞ楽しいだろうなとか思われるかもしれないが、かくしてその実態は「そうでもない」からだ。

 

時々、「スウィングの普通」からはかけ離れた、恐らく常識的な、ちゃんとしたところに行ったりすると、「発狂する自信」をはっきりと感じたりもする。スウィングの普通は世間の普通とは、やはりいい意味でズレているのだろう。

でも、僕たちが喜怒哀楽を持った人間として生きる毎日は、決して「喜」や「楽」ばかりではないし、どんなにいいように見える場所でだって、いろいろあるのが「揺るぎなき普通」なのではないだろうか(あ、「揺るぎなき普通」のことを「普遍性」っていうんじゃないのかな? どうなのかな?)。

 

 

たとえば好きなことばかりしているQさんは、よく意味のわからんことで怒っているし、そうは見られないことの多いXLさんだって、実はまあまあの頻度でイライラを隠せずにいる。

増田さんは今でも些細なことでよく凹んでいるし(もちろん彼にとっては些細なことではない)、沼田君の眉間の皺はますます深く刻まれているようだ。

おお、そう言えば向井さんなんてもうひと月以上、仕事を休み続けているではないか。

 

 

半月ほど前のことだ。

(スウィングではなかったけれど)僕は人目も憚らずに泣いた。

封じ込め続けてきた、気づかないフリをし続けてきた感情が遂に出口を見つけ、涙と共に溢れ出し、止まらなくなったのだ(無論、ひとりで泣いていたわけではなく、目の前には受け止めてくれる友人がいた)。

 

どんなに好きなことばかりをしていたって、日々を、ある場所を、喜びや楽しみだけで満たすなんて無理だ。

そんなのはちょっとおかしい。いや、あやしい。

絶対、不自然。ムリムリムリ。

 

むしろ喜びや楽しみは適当に放っておいてもいいのだと思う。

だって彼ら(?)は勝手に溢れ出し、知らぬ間に、好きなように拡散してゆく。


それはとても素敵なことだ。

 

 

でも、かわいそうに怒りや哀しみは、このポシティブ志向の世の中では疎んじられ、とりわけ「いい年をした」大人にとっては禁忌事項にされているきらいすらある。

今、この国の「五大疾病」のひとつは「精神疾患」なんだそうだ。

五大疾病ということは即ち、「誰でもなる可能性がめっちゃ高い」ということである。

極端な推論かもしれないが、喜びや楽しみしかないようなフリをしているうちに、蓋をされ、ないことにされ、行き場を失った怒りや哀しみが、遂に「病気」という形になって現れまくっている、そういうことなんじゃないだろうか。 

 

好きなことをしながら、時にQさんは怒り、XLさんはイラつき、増田さんは凹み、沼田君は眉間に皺寄せ、向井さんは休み、そして僕は泣く。

 

怒りや哀しみ、しんどさや弱さ。

そうしたネガティブとされる、でも当たり前の心たちを安心して見せることができる、そんな場づくりをスウィングは続けてきた。

もちろんそれは一筋縄ではいかない、今日も明日も来年も5年後も10年後も続く、終わりなき仕事である。

 

木ノ戸

| 考えごと | 19:27 | comments(0) | trackbacks(0)
時には「杓子定規」なド直球

 

10日ほど前のことだったろうか、京一さんとQさんにド直球な説教をかました。

内容をざっくり言うと、「もっと“ちゃんと”休め」だ。

 

最近の京一さんはなんだかフーフー言いながら仕事をしている。相変わらず笑顔やダジャレは絶えないが、どこか少し辛そうだ。

「フーフー」が悪いことなのかどうかも分からないし、「少し辛そうに見えるだけ」なのかもしれない。

でも、確実に分かることがある。

それは彼が毎日朝から眠たそうにしていて、毎晩、丑三つ時までゲームやテレビにいそしんでいることだ(しかも起床は6時)。

「まともな生活」なんてものはあまり信じないが、それでも睡眠が大切なのは揺るぎない真実のひとつだろう(個人的に「睡眠の大切さ」に人生史上最も深く思い至って軽く衝撃を受けたのも最近のことだ。この件はまた別の機会に書きたいと思っている)。

ここに至るまで、昼寝用の(おでこの下に敷く感じの)枕もプレゼントしたし、スウィングに出勤した瞬間にはじめる「朝寝」も猛プッシュしてきた。

でも、元来京一さんはかなり生真面目な性格なので、こういう「日本式の正しい働き方」から逸脱した行為は苦手らしく、Qさんのように疲れたらスウィングのベッドでグーグー寝るなんてできない人なのである。

 

 

じゃあ、言うべきことは至ってシンプル。

 

もっと“ちゃんと”早く寝て休んでください。

1日中あくびをし続けなくてもいいように。

 

ちなみに京一さんの寝つきの良さは折り紙付きだから、いくら早寝をしたって心配はない。

 

 

Qさんは京一さんと違って、自由に朝寝も昼寝もするし、加えて体調に合わせて休みを取ることも習慣づいている。

だから僕も普段は「体調管理の天才!」なんてもてはやすこともしばしばだ。

が、彼は夏にめっぽう弱い。

「夏、最高!」みたいなのが書かれたTシャツをよく着ているけれど、客観的には「夏、天敵!」のほうが圧倒的に真実味がある。

彼には持病もあるし肥満だし体力はないし、そうじゃなくても真夏の暑さは普通にきつい。

しかしながら活動的で多趣味なQさんは、炎天下の休日に朝っぱらからヘトヘトになるまで出かけることをやめず、その挙句に疲れを引きずって泥のような顔をしてスウィングにやって来て、意味不明にブチ切れてデカい声を出したりするのである。

 

 

やかましい。

 

休むべきときに休まず、動き回って疲れまくっておいて、「もうヘルパー、辞める!」とか連発するとは何事じゃ。

しかも「焼き鳥の本数が少なすぎる」とかいう、あまりに身勝手な理由で。

 

もっと“ちゃんと”休日は休むために過ごしてください。

疲れがたまって怒り狂わずにすむように。

 

ちなみにQさんの寝つきの良さも折り紙付きであるが、眠りはかなり浅いらしい(だってすぐ、目、覚ますもん)。

 

 

スウィングは自由だ。

 

でもアレもコレもと自由の尊重ばかりしているうちに、節操がなくなり過ぎて混乱してしまうこともあるし、「実は肚に一物も二物もある」のを、「自由」の名のもとに無いことにしたり、伝えることをサボったりもしてしまう。

だからこそ、時には「杓子定規」なド直球を、“ちゃんと”堪忍袋の緒を切ってストレートに伝えることも必要なんじゃないか。

そして案外、そういうのって、心の奥深いところまでズドンと響く(ような気がする。)。

 

 

そして、そのときの主語はやっぱり自分自身だ。

 

「京一さんのためを思って」でもなく、「Qさんのためを思って」でもなく、「僕が」フーフー言いながら辛そうに仕事をするのを見たくないから、疲れて理不尽な怒りを爆発させられるのはたまったもんじゃないから、言う。

主語を自分に置くとは、自分の感情や感じたことを大切にするということ。

誰かのせいにしたり誰かのためなんて勘違いをしないように、自分軸を見失わないこと。

 

→ ★2019.5.31 親切が人の力を奪う。

 

 

さて、『まともがゆれる』の出版以降、(スケジュール管理の甘さゆえ)休みらしい休みが取れず、「なんにもしなくていい休みが欲しい……」などと愚痴る日々が続いていたが、ようやく先日、その「なんにもしなくていい休み」が取れた。

2人に偉そうに、説教たれた我が身である。

ハンパじゃなく死んだように休んでやろうと意気込んでいたのだが、この半年間、たくさんの人に会いすぎた反動からか、孤独感がものすごくってちょっとまいってしまった。

ま、ゴロゴロしながら映画を1日中(『孤狼の血』『カメラを止めるな!』『イントゥ・ザ・ワイルド』の3本です)観たんだけど、休むってなかなか難しい。

 

貴重な土日を「丸2日間、寝て過ごす」というミサ名人の域には、なかなか到達できそうもない。

 

木ノ戸

| 考えごと | 12:15 | comments(0) | trackbacks(0)
親切が人の力を奪う。

 

京都市バスに乗車中、少ししんどそうに見えたおばあさんに席を譲ろうとすると、「ありがとう。もうすぐ降りるから」と笑顔を向けられた。そっか、そっか。

しばらくすると、そのおばあさんは立ったまま降車ボタンを押そうとするのだが、もうちょっとのところで手が届かない。

「どうしようかな」と迷っているうち、彼女の腕はグン!と最後のひと伸びを見せ、無事にボタンを押すことができ、「とまります」の文字が赤く光った。


さて、僕の「どうしようかな」の正体は、「おばあさんに代わってボタンを押したほうがいいのかな」という、数秒間の逡巡である。そう、いつも迷うのが誰かに手を貸す、あるいは親切らしきものをかますタイミングだ。


たとえばこの場合、少し待つと彼女の手はグン!と伸び、ボタンを押すことができた。もしも僕が代わりにボタンを押してしまっていたならば、グン!の出番はなかっただろう。つまり彼女の腕が、その限界近くまで伸ばされることはなかっただろう。そしてグン!の出番がなくなればなくなるほど、彼女はどんどん、グン!ができにくくなったり、グン!の距離は短くなってゆくだろう。


海に泳ぎに行くことはあまりないし、ライフセーバーが見守っているような浜辺に行ったことは一度もない。ただの一度も。


だからこれは全くの想像(妄想)なのだけれど、たとえば浜辺に何度も何度も姿を現し、元気ハツラツ大活躍をしているように見えるライフセーバーは、実はあまり感心できない、三流セーバーなのではないだろうか。


対して一流のライフセーバーはなかなか動かない。何なら1日中ピクリとも動かない。が、めっちゃ見ている。本当に自分が動くべき事態にだけ動き、動かなくとも解決する事態には無闇に動かないために。


子どもが浜辺で転んだ。大声で泣き出した。三流が勢いこんで、飛び出していこうとする。一流は彼をスッと手で制す。しばらくすると子どもは自らの足で立ち上がり、砂を手で払って歩き出す。


「親切」や「支援」という「正しい行い」は、その人ができること、主体性、自立性、そうした大切なものを奪ってしまう可能性をいつだってビンビンに秘めている。なのにそれは「正しい行い」がゆえに、本当にそれをすべきだったのか? ただの自己満足ではなかったのか? あまり顧みられることがない。


でも一方でこの社会に決定的に足りないもののひとつは「おせっかい」だなあ、なんて真剣に考えてもいるし、主体性や自立性を尊重するふりをして、その実、面倒くさいから何にもしようとしない人がたっくさんいるのも現実だと思う。

 

 

僕はさっさと降車ボタンを押して、「ありがとう」と言われてしまえばよかったのだろうか。


いや、待てよ。これがおばあさんじゃなくって降車ボタンを押さずにはいられないQさんやかなえさんであったならば、僕はキッ!と厳しい目つきで睨まれていたのではないか。

いやいや、あのおばあさんだってQさんやかなえさんの「一味」だって可能性もあるじゃないか。


たぶん答えは永久に出ないし、正解はひとつではないのだと思う。


だからやっぱり最後はここに落ち着く。


親切も支援もおせっかいも、自分の意思で、自分が決めて、自分がやりたいからやるのである。


ここがぶれてしまうと「押しつけがましさ」や「ええことしてる感」が漂ってしまい、場合によっては相手に申し訳なさすら感じさせてしまうことだってあるし、逆に自分軸さえぶらさなければ、失敗したって上手くいかなくたって「誰かのせい」になんかせずに、何度でも自分自身を出発点にできる。


人生の主語はいつだって自分自身なのである。

 

木ノ戸

| 考えごと | 12:18 | comments(0) | trackbacks(0)
ダメなままで生きる

 

今日は京都・宝が池公園を会場に開催された「あそば春」というナイスなイベントで、「井敦子と草の根プロジェクト。」代表の井敦子さんと、(どっかで聞いたことがあるような)「敦子の部屋」というトークコーナーで話をさせていただいた。飛び入りで丹下紘希さんもご参加。(どっかで聞いたことがあるようなテーマ曲を合図に)3人でゆるく、でもマジメな話をした。

 

井さんの懐の深さというか魅力はデカすぎて説明が難しいのだけれど、僕との明らかな共通項は「学校時代に色々うまいことできてしまったけれど、実は絶望的なくらいに合っていなかった」という点だ。僕は最近、このことを「騙された」と表現することが多いのだが、じゃあ誰に騙されたのか? と考えるとなかなか答えが難しい。誰もが信じて疑わなかった価値観なり評価軸なりがあって、できるだけそれらの「上のほう」で生きていくことがより良い……誰にもこれ以外に、ほとんど思考や選択の余地はなかったのだから。人と人とが殺し合うという、どう考えたってメチャクチャな戦争だって、大多数が正しいと信じこんでしまえば正当化されてしまう、そういうデンジャラスな世界の中を常に僕たちは生きている。一体どうすればいいのか困ってしまうけれど、僕は時々「ひょっとして今のこの状況は間違っているのかもしれない」と疑ってみることが大事だと思っている。


トークは大変ありがたいことに、(一応、僕がゲストという形だったので)『まともがゆれる』に書いたことを話題にしながら進められた。大雑把に言えば、セーフゾーンがあまりにも狭くなってしまったこの窮屈な社会をダメなままで生きてゆこう! というメッセージを大の大人3人が(あくまで雰囲気は和やかだったが)本気で投げかける、そんな30分間だったように思う。「ダメなままで生きる」ということと、「マジメに生きない」ということとはだいぶ違う。むしろ「ダメなままで生きる」というのは、「大きな勇気を持って、めっちゃマジメに生きる」という宣言に近いと思う。

 

前提として、人間というのはそれぞれにスーパー不完全な生き物である。いつの頃からか僕の中での完全形モデルはなぜか「阿部寛」なのだが、無論、阿部寛は世界にひとりしかいないし、誰もが阿部寛のように生きられるわけはない。というか完全形としての阿部寛も僕の幻想、いや、妄想に過ぎない。つまり僕たちは、大人のふりをしようが立派なふりをしようが威張って肩で風切り歩こうが、いつまでも完全にはなり得ない、揺るぎなくダメな存在なのである。

 

「ダメなままで生きる」ということは「丸裸の自分のままに生きる」ということ。

ひょっとしたらこれは、ものすごく怖い生き方なのかもしれない。飼い慣らされてしまった僕たちにとっては、分かりやすく、大多数が何となく共感できる価値観や生き方のロールモデルがあり、それに乗っかって生きることができれば、それにこしたことはないのかもしれない。でも、もう、違う。そんなものはもうとっくにぶっ壊れているのだし、否が応でも新しい(古くてもいい!)何かを模索し、更新しなければいけない。

 

 

丹下さんも『まとゆれ』を買って読んでくださっているというし、井さんは太宰治やヘルマン・ヘッセと同じくらい共感したと言ってくれるし(……リップサービスが過ぎる)、いやいや、まあ嬉しかったのだが、こうした『まとゆれ』に対する好意的な感想や反応に僕自身が陥っていた苦境については先日のブログに書いた通りだ(→『モヤモヤを舐めてはいけない。』)。

 

僕は今日もステージの上から、QさんやXLさんの姿を見つめていた。僕が賑やかな会場に辿り着くまでにアチコチ迷い、不安とともにひとり彷徨っていた頃、同じように別のところを彷徨っていたという大登くんの姿もあった。3人はステージの傍にはいたが、「誰ひとり聞いちゃいねえ」様子だった。

 

ダメさや弱さを認め受け入れたとき、それはもう、ダメさでも弱さでもない。

僕たちは『まともがゆれる』の続きを揺らし、既に新たな日々を生きている。

 

木ノ戸

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研修報告書:アートの評価を考える(講師:椹木野衣氏)

 

障害のある人のアートの「橋渡し」を考えるためのセミナー

第3回:アートの評価を考える

 

・記入日:2019年2月27日

・記録者:木ノ戸昌幸

 

 実施日:2019年2月7日(木)18:00〜19:30 

 場所:京都場(きょうとば) 京都市中京区西ノ京南聖町6-5

 内容:アートを評価するということは、作品の魅力や意義を言葉にし、人に伝えるということであり、「なぜアートが人間や社会に必要なのか」ということを考えていく重要なプロセスです。アートのプロセスや社会的コンテクストを含め、幅広い視点から評価や批評を行ってきた評論家を招き、その価値を図るまなざしを学びます。

 講 師:椹木野衣氏(美術評論家・多摩美術大学美術学部教授)

 聞き手:岡部太郎氏(一般財団法人たんぽぽの家)

 

<参加の目的>

昨今、障害のある人によるアートも【売れる/売れない】【入選する/しない】等の評価軸に置かれる機会が増え、【評価が高い作品=良い作品】といった風潮が生まれつつあることに疑問、違和感、危機感を感じる。表現を、アートを、作品を、評価するとはどのようなことなのか? 椹木さんの考え方を学ぶ。

 

<研修で学んだこと>

●批評は文芸である!

椹木さんは「批評」をする人である。批評と評価は別物。評価はある尺度(評価軸)を持って優劣等を判断するものだが、批評に評価軸はない。なぜなら批評は人それぞれの内なる印象、主観的な自己表現だからだ。よって批評は誰にでもできる! 

 

●表現は、作品は、「関係性」の中で作られる! 

椹木さんは言った。

「もっと関係性を見るべきではないか? 作者も作品名もいらない。究極の理想はキャプションがなくなること」。

近年、障害のある人の「行為」を「作品」として提示する機会が増えており、魅力的なものも多い。が、「作者」とされるその人自身には作品としての自覚がなく、その魅力を発見し、作品として提示しているのは、その人の周辺にいる人(多くは支援スタッフ)の場合がほとんどであるように思う。だとしたらそれは、むしろスタッフの作品ではないのか? あれ? じゃあ「その人」はどうなってしまうのだ? そういう疑問がもやもやと、常に僕の中にあった。

この疑問にひとつの、明快な解を与えてくれたのが「関係性」という考え方だ。ある1つの表現、作品は様々な人との関係性の中で作られている。いや、ほとんど関係性の中でしか生まれ得ない。だとしたら全ての作品は共同作業によるものであり、「作者」は仮の、(「外部との回路」としての)一応の代表者みたいなものである。とりわけ障害者の表現活動には「全てその人の自発性によるもの。周りは何もしていません!」といった神話が伴うことも多いが、特に黒子に徹しがち……というより、なりたがる支援者はもっと堂々と、前に出てもいいのではないか。もちろん、どの程度その人の表現に関与するか?は常に逡巡すべきであるが。 

 

<意見・感想・今後について>

椹木さんは戦い続けている人だと感じた。参加して本当に良かった。

僕は「まともがゆれる」を書いたことが、「自分だけの手柄」のようになっているのに違和感があった(いや「自分だけの手柄」にしようとしていることに後ろめたさがあったと言うべきか)。とりわけ担当編集者さんとは、寝る間も惜しんで一緒になって頑張ったし、その存在失くして本の完成はあり得なかった。編集者の存在、マジヤバいと実感した。が、当の編集者さんはやはり控えめに、黒子に徹しようとする。また、この本にはスウィングの、様々な人の詩や絵が登場するし、僕が書いた本文の内容も、スウィングの実践、スウィングの人のこと、それらを通して考えたことがほとんどである。つまり「書く」という作業は確かに僕がしたけれど、この本はやっぱり、編集者との、そしてスウィング皆との関係性によって生み出されたものなのだ。椹木さんの話を聞いて「僕だけの本ではありません。編集者さんやスウィングみんなで作った本です!」と言っていいのだということが分かって、僕はとにかく、肩の荷が下りたようにほっとした。でも「みんなで作った本です」みたいなことを迂闊に言ってしまうと、どうにも嘘くさい、綺麗ごとな感じが漂ってしまうので、なかなか口にはしづらいのである。

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